
大正至昭和時期的有田皿山
本文節錄自『日本的陶瓷 伊萬里』(永竹威 著・保育社發行 初版:昭和48年10月)
大正時代的會社模式
進入大正時代後,在中型企業中,生產製程已全面邁向近代化,尤其是電氣化的普及格外顯著。生產的品項除了以往的美術陶瓷與日式、西式生活用品外,更廣泛擴展至電氣器材、建築材料及化學工業用品等多種領域。在大正十年(1921年)前後,主要的窯主紛紛轉向近代資本體制下的公司化經營,在香蘭社、深川製磁株式會社、青木兄弟商會、久富藏春亭、和久製陶所、帝國窯業、辻製陶所、森窯業會社之外,岩尾合資會社也相繼成立,邁出了企業合理化的第一步。到了大正十一年(1922年),為了團結有田皿山的窯元與商賈,並推動市場開拓及陶瓷品評會的運作,成立了「有田商工會」。
昭和時代的技術更迭
進入昭和年代(1926年~)後,有田的窯場迎來了巨大的考驗期。這是因為愛知縣(特別是名古屋市周邊)的陶瓷產區積極推動設備近代化,實現了大幅成長。名古屋地區的*大型製瓷公司將彩繪(赤繪)窯改為電窯,藉此提高良率並實現量產;受到影響,有田的中型窯場也陸續將赤繪燒成方式從傳統的柴窯改為電窯。即使在明治、大正這段經濟劇烈變動的時期,自江戶時代起作為不外傳秘法傳承下來的柴燒赤繪窯,依然隨時間逐漸淡出,取而代之的是被視為更便利設施的電窯——這可說是有田皿山的一大轉折點。其結果使西式餐具的生產步入正軌,穩定的產品半數實現了量產。進入昭和六年(1931年)後,搶先全國各大陶瓷產區,舉辦了對肥前陶瓷界而言極具紀念意義的陶瓷博覽會(見本市)。
此時期佐賀西松浦地區窯場的整體規模為:本窯107座、赤繪窯100座、從業人員2,058人;昭和五年(1930年)前後的總產值約在230萬日圓上下。
編注:此處提到的名古屋大型製磁會社,主要指 **日本陶器會社(現 Noritake)**及其在愛知縣周邊帶動的窯業體系。
戰時體制的經濟動盪
到了昭和十五年(1940年)左右,在進入戰時體制的經濟動盪下,電氣及工業用品的需求雖大幅上升,但美術陶瓷卻被視為奢侈品而受到嚴格的價格管制,一般生活用品也被統一規格化,窯場不得不製作簡樸平淡的花紋式樣。然而,獲商工省指定為工藝技術保存的窯元,在某種程度上仍能從事規格外的創作。自昭和十七年(1942年)至二十年(1945年)期間,隨著戰事日益嚴峻,美術陶瓷完全遭到忽視,生產重心轉向製作金屬代用品的陶瓷器,或是改產軍用餐具等。軍方雖強制執行了為增強戰力的企業整頓與企業合併,但在此逆境中,戰時仍留下了數件陶工傾注生命所創作出的卓越美術陶瓷。
戰後佔領期的混亂蕭條
太平洋戰爭這場人類歷史上的浩劫,對有田皿山而言,同樣是一段充滿不幸與悲痛的過往。這不僅意味著自江戶中期以來、綿延三百數十年的傳統工藝失去了後繼傳人,守護傳統技術的珍貴意識也隨之淡薄。與此同時,原本力求合理化與近代化的產業生產體系亦化為烏有。然而,長達近五年的戰亂磨難,反而成為喚醒新力量的支撐。昭和二十年底的有田皿山,已逐漸點亮了邁向現代的新燈火。
在長期生產管制與各類原料極度匱乏的雙重打擊下,處於戰後佔領期的皿山面臨著經濟蕭條與混亂的世局,窯主、陶工與陶瓷商人都在遠離美術陶瓷生產的社會環境中咬牙苦撐。
不僅如此,作為燃料的煤炭受到嚴格配給管制,徹底打擊了窯場的生產意願;而描金所需的金泥原料,在佔領期更是被明令除外銷品外一律禁止使用,如此惡劣的困境持續了相當長一段時間。儘管如此,微弱的光明與轉機仍逐年展現。
陶藝創作的復興再起
不久後,大師級創作者與年輕陶工之間建立起了透過創作進行對話的平台。這便是整個佐賀縣「縣美術工藝協會」的成立(昭和二十二年),為戰前極為罕見的全新「陶藝之路」開啟了大門,也讓保守氣息濃厚的有田皿山萌發了創作工藝的新芽。在戰前的帝展與文展時代,有田窯場中幾乎無人參賽,唯有松本佩山一人。其代表作品:染付鷺圖缽「早苗」便是在戰後的創作,作為昭和二十二年(1947年)第一屆日展的參展作品,將佐賀平原初夏的風物詩透過現代陶畫呈現出來。該作以插秧結束後的初夏田園為主題,將茁壯生長的「早苗」與振翅飛起的「兩隻鷺鷥」化為青花磁器(染付絵)作品。這並非單純的繪畫,其價值在於將之昇華為青花瓷創作。我在欣賞佩山作品的同時不禁想到:佩山在有田泉山年木庵的窯場中,承襲了岳父也就是明治名工深海宗竹的教誨;在他青年時期的心靈深處所孕育的,正是十七世紀初期有田青花平盤、小缽上呈現的李朝風格,亦或是明末天啟風格的青花、吹墨手染付,或是青瓷染付鷺圖瓷器。松本佩山將這些傳統技法予以近代化,並呈現在這只大盤創作上。他積極進取的作陶態度深深感染了年輕陶工,並促成了昭和二十六年(1951年)第一屆縣展工藝部門湧現大量參賽作品的盛況。
國家重要無形文化財的認定
時至今日,以有田皿山為中心的陶藝家活動,在松本佩山逝世後主要由「佐賀縣陶藝協會」為主軸推展。隸屬於日展系的現代工藝派、日本工藝會系的傳統工藝派,以及一水會等團體的陶藝家們,正試圖透過瓷器創作賦予當代全新的意義。他們高舉創作工藝的旗幟,將熱情傾注於新時代工藝美術的創作中。同時,他們以有田皿山近三百七十年的歷史傳統技法為根基,傾力推動底蘊深厚的傳統工藝走向近代化。但與此同時,置身於傳統與近代交織的窯場漩渦中,如何將這份探索方向在作品中表達出來,對作家而言也是一種必須背負的苦惱。在設備近代化的浪潮下,重油窯與瓦斯窯帶來的燒成革命,確實徹底翻轉了陶瓷業本質中「土與火」的傳統觀念。其結果是,傳統有田原汁原味的「古伊萬里風」手工世界正逐漸被世人淡忘。然而,在年輕一代的陶藝家之中,依然有人願意沉下心來審視陶藝原點,藉由作陶投身於傳統的近代化之路。
有田皿山的傳統技法,一般被認為奠基於肥前赤繪的三大潮流與樣式,即承襲自古伊萬里、柿右衛門與色鍋島的脈絡。然而,在二十世紀後半葉的今天,要將這套技法傳承下去極為困難。因此,日本文化廳為了保存作為無形文化財的赤繪技術並培育年輕後繼工匠,指導酒井田柿右衛門家與今泉今右衛門家兩大工坊成立技術保存會。為此,兩家技術保存會的代表——第十二代今泉今右衛門與第十三代酒井田柿右衛門,分別獲得了國家重要無形文化財的綜合認定。

十三代柿右衛門 作・色繪草花紋露草大缽
技藝傳承與後繼人才的培養
此外,江戶時代有田皿山的傳統技法之一,包含直徑約六十公分的大盤、大缽類,以及高達一百五十公分左右的大型裝飾壺等成形技法,同樣是珍貴的無形文化財。尤其在明治與大正時代,名工井手金作憑藉其精湛的拉胚技術,為各地神社佛寺製作了眾多大型奉納品。作為其親傳弟子的奧川忠右衛門,雖然獲得國家認定為無形文化財記錄保存對象,但以瓷器製作大型壺類與大皿的成形,依然是相當不易的手工領域。,是一門令人不得不深思後繼人才培養難題的技藝。
近年來,中生代作家們的創作也日益厚重沉穩,其發展方向在將當代藝術思潮作為指引的同時,其製作技法依然秉持著尊重陶藝原點的精神,為東方傳統技法賦予現代意義。
今日的有田皿山以「陶都有田」之姿年年展現新風貌,在企業合理化與設備近代化的相互融合下,不僅藝術陶瓷與生活用品歷久不衰,更順應時代需求持續生產電氣用品、工業用品及建築材料等廣泛品項。另一方面,昔日作為有田皿山瓷器出口港的伊萬里,如今已崛起為新時代的商業之都,周邊的大河內町(舊藩窯所在地)與大坪町等地也闢建了窯業園區。雖然佐賀縣整體的總產值已攀升至兩百億日圓大關,但其中工業用品、建築材料與電氣用品約佔75%左右,純日常生活用餐具約佔15%,剩餘的10%左右才是美術陶瓷與工藝品。
由此可見,昔日的有田皿山雖然正穩步進行近代化的蛻變,但回顧江戶中期繁盛的荷蘭貿易成就,人們依然期盼它能邁向更具國際化色彩的工藝瓷器新天地。

作者結語:有田的歷史散步
本文從日本瓷器的黎明期談至黃金盛世,一路敘述了邁向近代化的肥前瓷器產業軌跡。在品味點綴日本近世窯業歷史的眾多古伊萬里名作之際,不由得將思緒飄向當年的社會背景,遙想有田皿山窯場的過往環境。
漫步於初秋的有田泉山,這座山脈孕育並蘊藏了產出無數古伊萬里名品、名器的珍貴陶石。在刻有「李參平發現磁礦之地」的古樸石碑旁,立有一座繫著粗大注連繩、氣勢莊嚴的石門。走進採石現場,眼前呈現出一片宛如美國西部片壯闊舞台般的白色岩壁,視野遼闊,與周圍鬱鬱蔥蔥的松林形成強烈對比,令人印象深刻。山壁各處還依稀可見江戶時代為了開採優質陶石而挖掘的多處隧道遺跡與古老坑洞。當手握潔白的岩石碎塊時,撫觸著誕生出古伊萬里、柿右衛門及色鍋島的「白瓷之鄉」,心中激起對歷史的由衷讚嘆,也對皿山產生了更深一層的眷戀。在泉山的山丘上,雜木林中座落著高麗神社。遙遠離開祖國、客居西肥前(有田)的李朝(朝鮮)工匠們的祈禱之聲,彷彿仍在耳畔迴響。初秋時節皿山飄灑的初時雨,別有一番動人風情。
循著昔日武雄領內宮野宿通往皿山的古街道前行,前往供奉著國家指定天然紀念物大銀杏的弁財天社。這株樹齡超過四百年的大銀杏,在春秋四季的流轉中依然生機盎然、枝葉遒勁,彷彿靜靜守望著有田皿山歷經滄桑變遷的產業足跡。
泉山弁財天是一座歷史悠久的古社,江戶中期的鍋島藩窯名工副島勇七等人,在脫離藩窯浪跡天涯之際,曾在此虔誠祈願。從上有田往山下走去,左側的山丘地帶如今已是新住宅林立,但回想起來,小樽、中樽、大樽等古窯址,在十來年前依然保有遺構可供辨認。
漫步於右手邊的後街小巷,佇立在江戶時代皿山居民朝夕穿梭的巷弄一隅的水神前,回顧著這條悠遠的製陶生業之路。看著享有「禁裏御用」御賜特權、專為京都御所燒製宮廷器具的名門辻家的古老土牆與大門,深切感受到了歷史歲月的厚重。走進白晝亦顯昏暗的巷道,石倉(石造倉庫)的屋頂映入眼簾。昔日存放江戶時代交易貨品的石倉,如今雖已由有田町立陶瓷美術館承接其功能,但當年為了保護產品免遭窯場祝融之災而建造的石倉,格局雖小卻顯得極為厚重莊嚴。
延伸閱讀:日本皇室專屬的瓷藝巔峰:肥前有田「辻常陸」與禁裏御用窯元
在帶著小型庭院造景的石壁上,以與這座罕見白瓷文學碑相襯的清麗青花,題刻著明治象徵派詩人蒲原有明在〈有田皿山雜詠〉中的詩句。不禁輕聲吟誦:
「白玉瓷肌上,可染透相思之幽香?朱紅之歡樂殘夢,青花哀愁之唐草……」
我完全沉浸在詩人有明青春年華的感傷情懷中,陶醉於皿山工匠作坊隨風而逝的悲歡歷史交響曲中。隨後,有田皿山代官日記中的一段記載浮現在我腦海中:『陶祖廟的夏日祭典上,工匠們年年懇請准許奉納「高麗舞」,但這項請求卻幾乎每年都被官方否決。』
封建體制下的工匠群眾,企圖藉由夏日祇園祭前夜跳上一曲「高麗舞」來抒發胸中鬱悶的人性衝動,此刻我也感同身受。
說到陶祖廟的歷史遺跡,便非陶山神社一帶莫屬了。登上石階頂端,眼前聳立著青花瓷雕繪唐草紋樣的鳥居,底座上則安置著繪有彩色花草紋的白瓷狛犬雕像。這應是明治時期大樽町與赤繪町的窯主們所共同奉納的。從陶山神社靜謐的境內向下俯瞰,窯場林立的有田街景宛如鳥瞰圖般清晰地盡收眼底。四周長滿赤松的山脊向左右兩側連綿延伸。
來到昔日藩政時期皿山代官與皿山會所張貼各式「禁令告示」與「法令告示」的「札之辻」,隨後轉往右上方的白川谷方向走去。看著在明治、大正、昭和時代的經濟浪潮中各自沉浮應對的香蘭社、深川製磁以及各式各樣「陶瓷工廠」的煙囪,反覆咀嚼著「近代」這個詞彙的深意。
上白川的溪流因剛剛下過陣雨而水勢充沛。溪流的岩床上,依然保留著江戶時代水碓(唐臼)工棚的遺跡。當年正是利用白川的水流驅動水碓,將泉山堅硬的陶石搗得粉碎。如今無人問津的水碓工棚遺址,見證了有田皿山產業活動的歷史。接著,我動身造訪近年受到海內外陶瓷學者矚目的上白川天狗谷古窯址。我雙手合十,肅立在這座迎來日本瓷器曙光的珍貴遺址前。這是一座依傍著松林山脊、呈細長形且左右兩側相互層疊築成的古窯址。特別是右側保留著包含十七間窯室、長達五十三公尺的連房式登窯遺構,歷經三百七十年的風霜雨雪,無聲訴說著創業當初的艱辛與辛勤勞作。撫摸著古窯址出土的唐草紋碗與柳紋碗,那份遠離故土、在異國他鄉為生計奔波的苦楚,強烈地湧上心頭。
然而,當細細品味在草創期窯爐中自然變形微曲的盤型,以及那抹淡雅的青花草花紋樣時,昔日陶工對於美純樸無華的追求,宛如一首起伏跌宕、強弱交織的交響樂譜,鮮明地浮現眼前。我再度退回古窯址下方仰望,其遺構的厚重感深深撼動了我的心靈。略帶茶褐色的窯壁在初秋午後的斜陽照耀下,散發出一種宛如歷史斷層般的凜然威嚴。我深刻體會到,這座天狗谷古窯址正是無名先人陶工生生不息的歷史豐碑,應當賦予其更寬廣且深遠的歷史價值與意義。
隨後我前往江戶時代獲准立案的赤繪工坊聚集的赤繪町。在寬文十二年曾有十一軒、明和六年曾有十六軒赤繪工坊林立的街道上,如今僅剩承襲這脈系譜的今右衛門窯一家。今右衛門家的屋頂瓦片上,因江戶末期畫房工匠拋棄的赤繪殘料與廢窯土,多處仍染著斑駁的紅色。
今右衛門工坊的繪畫工作室(絵書座),至今仍隱約流露著江戶時代的遺韻。工坊內分為青花座與赤繪座兩部分。歷經明治、大正、昭和三代守候在繪畫座前、年逾古稀的老婦人面容上,以及揮動著粗大分水筆(ダミ筆)的手指尖,流露著唯有恪守手工藝的匠人才能體會的純粹喜悅。在赤繪座中的年輕女子,手執細緻的毛筆,聚精會神地勾勒著線條。在每位畫工身旁的各色手工工具中,我切身感受到了所謂「皿山秘傳」這種無形資產的具象呈現。沿著赤繪町的街道信步而下,左側路旁立著刻有「陶窯祈願所」的木標柱。這裡雖是日蓮宗法元寺的境內,但過去卻是皿山的窯主、製胚師、彩繪師與燒窯工匠們將一切交託給「窯神與火神」的祈願聖所。
時至今日,據說法元寺依然會發放祈求「燒窯平安」的護身符;昔日皿山居民虔誠的祈求中,深刻體現了燒窯這門靠天吃飯的宿命所帶來的煎熬與艱辛。
藩政時代用來盤查外地行人的赤繪町「搖晃石(ゆるぎ石)」遺跡,如今已不復見,街道兩旁盡是新建林立的批發商號。穿過外尾宿場遺址,朝著南川原的皿山方向前行。與有田外山的黑牟田、應法窯場方向恰好相反的南川原窯場一帶,依然散布著「小物成窯址」等許多藩政時期的歷史古蹟。
南川原山頂端的鞍部要道上,曾設有肥前領與大村領官員駐守的「境目方」關卡遺址;而在下南川原山,則坐落著酒井田柿右衛門的窯莊聚落,世代恪守家業,悉心守護著赤繪家族的門楣。庭前據說樹齡已逾三百年的蒼勁老松,與「二代目柿の樹」相互映襯,給來訪者留下了古樸窯鄉的深邃印象。覆蓋著厚重茅草的宅第主屋,依舊散發著江戶時代作坊與繪畫座的濃厚氣息。在初秋夕陽映照下的古老柿樹枝葉窸窣聲中,彷彿能聽見歌舞劇名演員第六代菊五郎在舞台上飾演初代柿右衛門時,從這片大自然窯里舞台傳出的經典台詞:「赤繪成功了!赤繪燒成了……」
有田皿山的歷史散步似乎永無止境。在西肥前崇山峻嶺的懷抱中,向長眠於有田皿山的無名陶工英靈靜靜合十致意。
依據文中提及的歷史年份與事件,按照年代先後順序整理大事記如下:
江戶時代
- 17 世紀初期:
- 有田燒青花瓷(染付)發展初期,小缽、平皿多呈現李朝風格,或明末天啟風格之青花、吹墨手染付與青瓷染付等技法。
- 寬文十二年(1672年):
- 赤繪町當時設有 11 家獲准立案登記的赤繪屋。
- 明和六年(1769年):
- 赤繪町的赤繪屋發展增至 16 家。
大正時代(1912年~1926年)
- 大正十年(1921年)前後:
- 有田主要窯主轉向近代資本經營體制,香蘭社、深川製磁、青木兄弟商會、久富藏春亭、和久製陶所、帝國窯業、辻製陶所、森窯業等紛紛推動企業合理化,岩尾合資會社亦於此時期設立。
- 大正十一年(1922年):
- 為團結皿山窯元與商家、開拓市場及營運陶瓷品評會,成立「有田商工會」。
昭和時代(1926年~)
- 昭和五年(1930年)前後:
- 西松浦地區窯業達本窯 107 基、赤繪窯 100 基、從業人員 2,058 人,年產額約 230 萬日圓左右。
- 昭和六年(1931年):
- 領先全日本各陶瓷產地,舉辦了肥前陶瓷業界具紀念意義的「陶磁器見本市」(陶瓷博覽會)。
- 昭和十五、十六年(1940年、1941年)左右:
- 進入臨戰體制,電氣及工業用品需求大增;美術陶瓷被列為奢侈品受物價管制,日用品亦受規格化限制,工匠被迫製作簡素紋樣。
- 昭和十七年(1942年)至二十年(1945年)八月:
- 太平洋戰爭戰況苛烈,美術陶瓷生產停滯,轉向製造金屬代用陶瓷及軍用餐具;軍方強制執行企業整頓與合同合併。
- 昭和二十年(1945年)底:
- 終戰後,有田皿山在原料極度缺乏與配給管制等困境中摸索復興,點亮走向現代的燈火。
- 昭和二十二年(1947年):
- 佐賀縣美術工藝協會成立:開啟戰後「陶藝之路」,推動皿山創作工藝之萌芽。
- 第一回日展:松本佩山以染付鷺圖缽「早苗」參展。
- 昭和二十六年(1951年):
- 第一回佐賀縣展工藝部門發足,受到松本佩山作陶態度之感召,眾多年輕陶工踴躍出品參賽。
3個你必須知道的有田燒重要小知識:
- 有田燒的誕生地與採石秘境:泉山
日本瓷器的起源始於李參平在有田泉山發現優質陶石,工匠們在山坡上開鑿坑道挖取陶石,再利用溪流的水力搗石機(唐臼)將其粉碎後作為原料,因此有田泉山也被譽為「白瓷的故鄉」。
- 柴窯換電窯:被名古屋「逼」出來的量產升級
昭和初期,名古屋陶瓷廠引進電窯大增產量與良率;這股競爭壓力迫使有田燒放棄傳承數百年的柴燒赤繪秘方,改用電窯燒製,成為有田皿山邁向近代化與量產西餐具的關鍵一步。
- 肥前赤繪的無形文化財守護者:柿右衛門與今右衛門
面對現代化工業對傳統手工技藝的衝擊,為了保存江戶時代流傳下來的古伊萬里、柿右衛門及色鍋島等赤繪技術,日本文化廳特別將第十二代今泉今右衛門與第十三代酒井田柿右衛門認定為重要無形文化財保持者(人間國寶)。

節錄 141~152頁日語原文如下:
141 頁
大正~昭和期の有田皿山 大正時代に入りますと、生産工程も、中企業では全面的に近代化され、特に電化が目立ちますが、品種も従来の美術陶磁器や、和洋の生活用品のみでなく電気用品、建築用品、化学工業<rtぎょう用品など多岐にわたりました。大正十年(1921)前後には、主要な窯主たちは近代資本の下での会社経営に移行し、香蘭社、深川製磁株式会社、青木兄弟商会、久富蔵春亭、和久製陶所、帝国窯業、辻製陶所、森窯業会社に加えて岩尾合資会社が設立され、企業の合理化の第一歩を踏み出したのでした。大正十一年(1922)には有田皿山の窯元、商家の団結と、市場開拓や陶磁器品評会の運営のために、有田商工会が設立されています。
昭和年代(1926~)に入りますと、有田の窯場は大きな試練期に入りました。それは愛知県特に名古屋市周辺の窯業地が設備の近代化を計り、大きく伸びてきたからであります。名古屋地方の大手の製磁会社では、上絵(赤絵)窯を電力に切り換えて、量産化と歩留りの向上に当りましたので、有田の中規模の窯場でも、赤絵付の焼成を薪窯から電気窯に切り換えました。明治、大正といった経済変動期の中でも、江戸時代から秘法として受け継いできた薪による赤絵窯は日を追って姿を消し、変って電気窯のより便利な設備として受け入れましたが、有田皿山の大きな転換期であったといえましょう。その結果として洋食器の生産も軌道に乗り、安定した製品が半ば量産化されました。昭和六年(1931)に入りますと、肥前窯業界にとっては記念すべき陶磁器見本市が、全国の窯業地にさきがけて催されました。この頃の西松浦地方の窯場の模様は、本窯数一〇七基、赤絵窯数一〇〇基、従業員数二〇五八人で、昭和五年(1930)前後の生産額は、二三〇万円内外のようであります。
142 頁
昭和一五、六年頃になりますと、臨戦体制という経済界の変動の中で、電気用品や工業用品などの需要は大幅に増しましたが、逆に美術陶磁器類は奢侈品としての取扱いを受け、価格が統制され、生活用品も規格づけられ、簡素な意匠模様の製作を余儀なくされました。しかし、商工省の工芸技術保存の指定窯元は、ある程度、枠外の仕事もできました。昭和一七年(一九四二)から二〇年(一九四五)八月にかけて、日を追って戦の様相が苛烈になりますと、美術陶磁器は、まったくかえり見られなくなり、代って金属の代用品としての陶磁器の製作へと転換したり、軍用食器などの生産へ切換えを行ないました。戦力増強のための企業整備、企業合同が軍の命令によって強行されましたが、その反面に、戦時下とはいえ生命を託したすばらしい美術陶磁器が生産された、いくつかの例もあります。
143 頁
現代への展開 太平洋戦争という人類の不幸なできごとは、有田皿山にとっても、不幸な痛ましいできごとでした。それは、江戸中期からこの方、三百数十年にわたって継承してきた伝統技術の後継者を失い、伝統技術を守ることの大切な意識が失われたことでした。また合理化され、近代化されようとした企業としての窯業の生産体制が崩れさったことでもありました。それでも、五年近い戦の苦しみは、かえって新しい力を呼び戻すための支えともなりました。昭和二〇年末の有田皿山には、現代への新しい灯が輝きはじめました。
長く続いた生産統制と諸原料の極度な不足に加えて、占領下の皿山は経済界の不況と混迷の世相の中で、美術陶磁器の生産などほど遠いような社会環境の中で、窯主も工人たちも陶商も耐え続けました。
144 頁
それでも、燃料の石炭の極度な配給統制は、まったく窯場の生産意欲を鈍らせ、金彩に用いる金泥の原料など、それこそ占領下の輸出品以外には用いることが許されないといった悪条件が長く続きました。それでも、わずかながらも、明るい見通しが年毎に増してきました。やがて師匠格の作家と若い陶工たちの制作活動をとおした対話の場所が設けられました。それは佐賀県全体の県美術工芸協会の発足(昭和二二年)であり、これまで、戦前にはほとんど見られなかった新しい「陶芸への道」が開かれるようになり、保守性の強い有田皿山に創作工芸の芽生えが生まれました。戦前の帝展、文展時代には有田の窯場から応募する人はほとんどなく、松本佩山のみでした。原色図版第77図の染付鷺図鉢「早苗」は、戦後の松本佩山の創作で、昭和二二年(一九四七)第一回日展の出品作ですが、佐賀平野の初夏の風物詩を現代の陶画に表現したものです。田植えが終った初夏の田園にモチーフを求めて、伸びてゆく「早苗」と飛び立った「二羽の鷺」を磁器の染付絵として作品化しております。単なる絵画ではなく、染付磁器として創作したことに意義があります。私は佩山の作品を鑑賞しながら、有田泉山の年木庵の窯場で、その岳父であり、明治の名工であった深海宗竹の教えを受けた佩山の、青年期の心の中に宿っていたものは、一七世紀初期の有田染付の平皿や、小鉢に描かれた李朝風な、あるいは明末、天啓風な染付や吹墨手染付、あるいは、青磁染付の鷺図の磁器であり、その伝統的な技法を近代化し、この大皿に創作したものだと思いました。彼の意欲的な作陶態度は、若い陶工たちに大きな感動を与え、昭和二六年(一九五一)に発足した第一回の県展工芸部門に数多く出品する動機となったようです。
145 頁
現在の時点での有田皿山を中心とした陶芸家たちの活動は、松本佩山なきあと佐賀県陶芸協会を中心に展開されています。日展系の現代工芸派と日本工芸会系の伝統工芸派や、一水会などに所属するそれぞれの陶芸家たちは、磁器の創作をとおして現代に意義づけようとしています。彼らは創作工芸の旗印をかかげ、新しい時代の工芸美術の制作に情熱を注いでいます。また三七〇年内外の有田皿山の歴史を背景とした伝統技法を基調とし、その底辺として伝統工芸の近代化に心を傾けています。しかし同時に、それは伝統と近代といった窯場の渦の中で、その方向づけを作品の中に表現するための、作家の苦悩を背負っているともいえましょう。設備近代化の呼び声の中で、重油窯、ガス窯による焼成工程の変革は、たしかに窯業の本質ともいえる「土と焔」の従来の観念を一変させました。その結果として、伝統的な有田本来の「古伊万里」的な手仕事の世界は、日ごとに忘却されております。しかし若い陶芸家の中には、陶芸の原点を見つめながら腰をすえ、伝統の近代化に、作陶をとおして取り組んでいる作家もいます。
有田皿山の伝統技法は、肥前赤絵の三つの潮流とその様式であるといわれていますが、それは古伊万里、柿右衛門、色鍋島の系譜にあると思います。しかし、二〇世紀後半の今日、その技法を継承することは非常に困難でありますので、文化庁では、無形文化財としての赤絵の技術を保存し、後継の工人たちを養成する主旨の下に、酒井田柿右衛門家、今泉今右衛門家の両工房内に技術保存会の組織化を指導しました。そのため、この両家の技術保存会の代表者である十二代今泉今右衛門と、十三代酒井田柿右衛門は、それぞれに国の重要無形文化財として、総合指定を受けました(原色版第80図、第81図参照)。
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また江戸時代の有田皿山の伝統技法のひとつである、径六〇センチ内外の大皿、大鉢類や、高さ一五〇センチ内外もある大飾壺類などの成形技術も、貴重な無形文化財であります。ことに明治、大正時代は、名工・井手金作が、その得意のろくろ技法で各地の神社仏閣の大型の奉納品を製作しました。その直弟子格の奥川忠右衛門は、国の無形文化財として記録選択を受けておりますが、磁器による大型(大物)壺類や、大皿類の成形はなかなか困難な手仕事の分野といえましょう(第87図参照)。後継者の養成といった大きな課題を考えさせられる分野です。
このところ中堅の作家たちの制作活動も重厚さを加えてまいりましたが、その方向は、あくまでも現代の芸術思潮を道標とわきまえた創作でありながらも、その制作技法は、あくまでも陶芸の原点を尊重した、東洋的な伝統技法の現代的な意義づけでありたいと思います(第88図から第95図参照)。
今日、かつての有田皿山は、陶都・有田として年ごとに面目を新たにし、企業の合理化と設備の近代化が調和して、美術陶磁器、生活用品はいうまでもなく、時代の需要にこたえた電気用品、工業用品、建築用品など幅のある生産活動が続けられています。また一方では、江戸時代の有田皿山の磁器の積出し港であった伊万里は、新時代の商都としての伊万里市が立ちあがりを見せておりますが、周辺の大河内町(旧藩窯)や、大坪町に窯業団地が造成されております。佐賀県全体の総生産額は二〇〇億円の大台にのしあがっておりますが、その比率は、七五%内外が工業用品や建築用品、電気用品が占めており、一五%程度が純生活用食器類、残りの一〇%程度が、美術陶磁器、工芸品といった内容であります。
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このように、かつての有田皿山は、近代化への脱皮が着々と進んでおりますが、江戸中期のあのオランダ貿易の成果をかえりみて、国際性豊かな工芸磁器への発展を期待したいものです。
有田歴史散歩(終章にかえて) 私は、日本磁器のあけぼのから黄金期を迎え、近代化された肥前磁器のなりわいのあとを語り続けました。日本の近世窯史を飾る古伊万里の名品の数々を鑑賞しながら、往時の社会背景なり、有田皿山の窯場の環境を遠く回想してみました。
私は、そのような数々の古伊万里の名品、名器を産み出した陶石の埋蔵している初秋の有田泉山を訪ねております。「李参平発見磁鉱之地」という古びた石ぶみのかたわらには、大きなしめ縄(しめなわ)をはった、いかめしい石門があります。採石の現場にゆきますと、まるで西部劇の大舞台を見るような白い岩肌が、ワイドな風景をかもし出し、まわりの青い松林との対比が印象を一 š 深くします。山肌のところどころに江戸時代に良質な陶石をトンネル掘りした、いくつかの古い洞穴が残っているのが見受けられます。真白い岩のかたまりを手にしますと、古伊万里や柿右衛門や色鍋島を産み出した「白磁のふるさと」といったすばらしい歴史の感触が、皿山への愛着を一層深いものにしてしまいました。泉山の丘には、雑木林の中に高麗神がありました。遠く祖国を離れて、西肥前に住みついた李朝工人の祈りの声が聞こえてくるようです。初秋の皿山の初時雨の風情は格別でした。
私は、旧武雄領内の宮野の宿から、皿山への旧街道を歩き、国の天然記念物に指定されている大銀杏のある弁財天の社のほうへ向いました。樹齢四〇〇年を超える大銀杏は、春・秋の季節の移り変りの中でまだまだ樹勢は逞ましく、有田皿山の有為転変の生業のあとを静かに見守っているように思いました。
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泉山弁財天は、江戸中期の鍋島藩窯の名工であり、のちに藩窯を出て放浪した副島勇七らが祈願した、由緒ある社です。上有田から下手に降りますと、左側の丘陵地帯は今では新しい住宅が立ちならんでいますが、小樽、中樽、大樽の古窯址がつい一〇年ほど前まではまだ遺構を残し、確認されていたことを思い出しました。
私は右手の裏通りを歩きながら、江戸時代の皿山の人々が朝夕に歩いた路地の片隅にある水神の前に立ち、遠い生業のあとをかえりみました。「禁裏御用」というお墨付の下で京都御所納めの御料器をやいた名門・辻家の古い練塀や門構えを見ては、歴史の一頁の重味を感じました。昼なお暗いような路地を歩くと、石倉の屋根が見えました。江戸時代の交易品を納めたという石倉は、今では、有田町立の陶磁美術館に肩代りしていますが、窯場の火難から産品を守るために造られた石倉は、小さい構えとはいっても重厚なものでした。小さな庭造りのある壁石には、明治の象徴派詩人である蒲原有明の「有田皿山にて」の一節が、珍しい白磁の文学碑にふさわしい清楚な染付でしたためてありました。私は思わず口ずさんでみました。
「白玉の磁器の膚に、染み匂うものをや思う 丹の色の歓楽の夢、哀愁の呉須の唐草……」
私は思い切り、青年の日の、詩人有明の感傷の中に飛び込みながら、遠く過ぎさった皿山の職人の座の哀歓の史譜に酔ってしまったのでした。
有田皿山代官の日記にある陶祖廟の夏祭りに「高麗踊り」を奉納したいから……といった職人衆の願出が毎年のように不許可になった、という記録がよみがえってきたのです。
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封建社会での職人衆が、せめて夏の祇園祭りの宵に「高麗踊り」で気をはらしたい人間的な衝動が、私にもよめるようです。
陶祖廟の名残りといえば、陶山神社一帯です。昇りつめると、染付磁器の唐草文様の鳥居があり、台石に草花文を色絵付した白磁の狛犬像がありました。明治時代の大樽町や、赤絵町の窯主たちの奉納のようです。陶山神社の静かな境内からは、窯場が集まっている有田の街なみが鳥瞰図的な構図の中で手に取るように見えます。赤松のある山の峯が、左右に伸びています。
私は、藩政時代にさまざまな「禁制札」や「おふれ札」が、皿山代官や皿山会所から掲示されたという「札の辻」に出て、右手上の白川谷のほうに歩きました。明治、大正、昭和の経済界の変動の中で、それぞれに処してきた香蘭社や深川製磁や、いろいろな「ヤキモノ工場」の煙突を見上げながら、「近代」という言葉をかみしめました。
上白川の渓流は、時雨のあとなので水量を増しておりました。谷川の岩床には江戸時代の唐臼小屋址が名残りをとどめております。泉山の固い陶石を、白川の水流によって唐臼で細かに砕いたのでした。今ではかえり見る人もない唐臼小屋址は、有田皿山の生業遺跡だと思いました。近年、内外の陶磁学者たちが注目している上白川、天狗谷古窯址を訪ねることにしましょう。私は、両手を組み合わせながら、磁器のあけぼのを迎えた貴重な遺跡の前に立ちました。松林のある峯に向って細長く左右両側に相重なり合って築かれた古窯址です。ことに右側の、十七室を数え、長さ五三メートルに及ぶ遺窯の構は、三七〇年の風雪に耐えながら、きびしい創業の営みのあとを物語っています。古窯址から出土した唐草文様の碗や、柳文様の碗を手にしますと、遠く祖国を離れた異郷の地での生業の苦しみが、ひしひしと迫ってまいります。
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それでも創業の窯の中で自然に歪んだ皿の形や、淡い染付藍色の草花文様を味わってゆきますと、往時の陶工の無心な美への営みが、高く、低く、強く、弱く、交響楽譜のイメージとなって鮮かに映し出されていることを教えられました。私は、ふたたび古窯址の下手に立ってみました。その遺構の重厚さに、心をうたれたのです。無茶色の窯壁が、初秋の午後の陽光に映えて、歴史の断層といったある種の威厳さえただよわしていました。私は、この天狗谷古窯址こそ、名もなき先人陶工の、生きたモニュメントとして、もっと幅の広い高度な歴史的な意義づけが大切だと思いました。
江戸時代に登録赤絵屋が定住していた赤絵町のほうに出向きました。寛文一二年に一一軒、明和六年に一六軒の赤絵屋のあった町なみには、今ではただ一軒、その系譜を受け継ぐ今右衛門窯があるのみです。今右衛門家の屋根瓦は、江戸末期の絵書座の職人衆が捨てた赤絵窯でところどころ赤くそまっておりました。
今右衛門工房の絵書座は、今もってわずかに江戸の名残を感じさせます。染付の座と赤絵の座に別れていました。明治、大正、昭和の三代にわたって絵書座に腰を据えている、七〇の坂を越えたおばあさんの顔顔と、大きなダミ筆を使う指先に手仕事を守る工人のみが知る喜びが残っておりました。赤絵の座には、若い娘達が細い筆を手にしながら、用心深く線描を続けています。ひとりひとりの絵書座のさまざまな手仕事の小道具の中に、私は「皿山の秘伝」といった無形の姿を身近に汲みとりました。赤絵町の通りを下ると、左手の道傍に「陶窯祈願所」の標柱が立っています。ここは日蓮宗の法元寺の境内ですが、万事は「窯まかせ」「火まかせ」と願った皿山の窯主や、細工人や絵書人や窯焚き衆の祈願所でした。
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今でも法元寺では「窯焼安全」の御守札がいただけるそうですが、かつての皿山びとの祈りの中には、宿命的な窯焼きの苦しみが、ひしひしと感じられます。
藩政時代、他領からの旅人を取締った赤絵町下の「ゆるぎ石」の跡は見ることもできません。今では右も左も新しい問屋筋が軒をならべています。外尾の宿場あとを通りながら、南川原の皿山のほうへと、歩きました。有田外山の黒牟田、応法の窯場とは、ちょうど反対の方向にある南川原の窯場一帯には、「小物成窯址」などまだまだ藩政時代の史跡が点在しています。
この南川原山の上手の峠には、肥前領と大村領の役人が滞在した「境目方」の役所址がありますが、下南川原山には酒井田柿右衛門の窯里があって、お家大事と赤絵の家門を大切に守っておりました。庭先にある、樹齢三〇〇年を超えるといわれる老松と、「二代目柿の木」は対照的で、訪ずれる人々に古い窯里といった印象を投げかけてきます。茅葺の重味のある母屋は、江戸時代の細工場・絵書座の雰囲気をただよわせています。初秋の夕陽をあびた柿の古木の葉ずれの中に、「赤絵ができた、赤絵ができた…」という初代柿右衛門に扮した名優六代目菊五郎の名セリフが、この自然の窯里の舞台から漏れてくるように思いました。
私の有田皿山への歴史散歩は限りなく続きそうです。私は、西肥前の山ふところに抱かれた有田皿山に永眠する無名陶工のみたまに静かに合掌しながら、ひとまずペンを置くことにします。