最近入手一本『染付與赤繪』是在大正十五年(1926)由三秀舍印刷出版,負責編撰內容的是「彩壺會」這個由物理學家暨貴族院議員大河內正敏主導,並聚集了當時許多重要的東洋美術史學家、鑑賞家與研究者,例如奧田誠一、淺川伯教等人組成的愛好者團體。節錄其中「赤繪論」篇章,帶我們看看百年前的陶瓷愛好者們對於「赤繪」的看法與認識。

何謂「赤繪」?坊間所稱的赤繪,涵蓋了形形色色各種類型的器物:有稱萬曆赤繪這類作品為赤繪的,也有將柿右衛門風格稱為赤繪的。此外,以紅色紋樣為主的九谷燒,有時也被稱為赤繪。正當這麼認為時,伊萬里的錦手有時亦被稱為赤繪;而在九谷燒當中,像飯田屋這類以金彩與紅彩描繪圖紋者被稱為赤繪,其他器物反而不被稱為赤繪的情況也是有的。正當這麼想時,如同中國的三彩陶那般,以紅、綠、黃三色進行釉上彩繪的器物,有時亦被稱作赤繪。
此外,其他如中國的五彩,亦即以紅、綠、黃、紫、藍五色施加紋樣之物,似乎亦同樣有被稱為赤繪的情形。再者,所謂「吳須赤繪」,主要是以紅彩及綠釉進行彩繪的器物。被稱為「南京赤繪」者,則較偏向五彩系統,同樣是由紅、綠、黃,視情況加上紫色,並且融入了青花(染付)的藍色。另外,世人將伊萬里燒中主要使用紅、綠、黃、紫、藍五色之物稱為「錦手」,但有時亦直接稱其為赤繪。其中若加入了金彩者,有時會被視為另一類別,不稱錦手而稱為「金襴手」。如果將「在裝飾紋樣中主要施加紅色釉彩」之物定義為赤繪,那麼在加賀飯田屋八郎右衛門之窯所燒製的所謂「飯田屋赤繪」,或稱「八郎金襴手」這類器物,或許才是名副其實的真正赤繪。
剛才所提及的錦手,指的是沒有青花藍彩之物;而以青花施加藍色者,則稱為「染錦」。其次是柿右衛門赤繪,這亦屬於中國五彩系統,包含紅、綠、紫、藍,有時亦加入黃色;柿右衛門赤繪有帶青花與不帶青花兩種,但一般世間所稱的柿右衛門赤繪,似乎多指不帶青花者。像萬古與安東這類瓷器亦屬於赤繪範疇,但一般所謂的萬古赤繪則屬一種特殊品類,僅單純以紅色描繪紋樣。照此脈絡說來,赤繪所涵蓋的意義極為廣泛,凡是使用了紅色顏料者皆可統稱為赤繪。彙整一般世俗所指的赤繪來考量,大抵便是如此。
因此若將其概念作一概括總結:在陶瓷器之上以紅色釉藥,也就是鐵紅(氧化鐵或稱「紅殼」)為主調,施以綠、黃、紫、藍等簡素釉上彩紋樣者即為赤繪,如此詮釋我認為最為恰當。
至此首先確立了所謂赤繪的根本概念。接著,讓我們來探討赤繪的釉料究竟是何種物質。赤繪中最關鍵的顏色自是紅色,而紅色正如方才所述,是氧化鐵(Fe2O3)。將它混入漿糊、糖蜜、阿拉伯膠、松根油等媒介物調和後,於素坯表面描畫紋樣並低溫烘烤固定而成。綠色主要採用氧化銅與氧化鉻,將兩者配合調配出綠色。其次,黃色則是混合氧化鐵、鉛丹與白玉等原料以呈現黃色;紫色使用二氧化錳,藍色則使用氧化鈷;便是使用這類彩料在素坯上描繪紋樣並燒烤,完成釉上彩繪。
赤繪的發展——接著探討赤繪究竟是以何種途徑演進而來。就極概括的角度觀察,赤繪的源頭依然是在中國。就極早期的器物而言,有所謂漢代陶器的「瓦胎」之物,亦即在宛如磚瓦般灰黑色的胎體上,以硃砂土或白土之類描繪紋樣。若單以「使用了紅色顏料」便認定為赤繪,那麼此類器物或許正是最古老的源流,但可能並不符合現今所謂赤繪的嚴格定義。至於在素坯釉面之上施加釉上彩繪的作品究竟始於何時?
實際上或許很早就已出現,但在現存能展現在我們眼前的遺物中,最古老的實物為宋代作品——在陶器胎體施以化妝土(即白化妝),其上施釉(推測主要為草木灰釉),再於釉面以紅、綠、黃描繪圖樣。這是近代才逐步明朗的事實:在直隸省定州以南、磁州以北的順德府有處名為「內丘」之地,而在內丘及順德之東則有處名為「鉅鹿」之所,近年此地出土了大量赤繪器物。起因是當地因乾旱缺水而掘井尋水,結果從地下挖掘出大小盆碟約十四件,上面皆帶有年號;大連的小森先生等人便將此類陶瓷稱為「鉅鹿陶」。
至於此物究於何處燒造?莫非正是在邢州一帶?亦即唐代所稱之邢磁。該盆碟背面有墨書年號,寫著「泰和元年二月十五日」,並題有「記」字及花押(署名押字),亦有未題寫者。此類器物出土約十四件,流入日本者似乎有五、六件。泰和為金朝年號,相當於南宋寧宗嘉泰元年,即西元一二〇一年。這在兩宋時期已屬極晚期;然而鉅鹿所出土之物中(當然似乎並非赤繪類),亦有題為「大觀二年」年號者。這時代稍早,為西元一一〇八年(大觀二年,原文記為千百七年),屬宋徽宗朝;另一件更早,為「元祐七年」(西元一〇九二年);此外還有稍晚的「崇寧二年」(西元一一〇三年)。
這些墨書究竟是器物燒造完成時所寫,抑或是入土隨葬時所題?無論如何,皆可斷定其年代絕不晚於兩宋。由此看來,赤繪至少在宋代便已燒造,這項推論是完全能夠成立的。這些赤繪盤碟構圖雖極為簡練,但運筆極為流暢老練,繪有牡丹及其他草花、禽鳥等題材。牡丹花以紅彩描繪、葉片呈綠色,盤沿則施塗黃色釉彩。此類紋樣在唐代或日本天平時代的諸多工藝品中皆曾見作為裝飾,例如野鴨紋或飛雁紋——這在我國奈良正倉院的寶物中亦有大量留存,而鉅鹿赤繪正是以相同風格施加了相同的紋樣。雖不能以此直接斷定此物即屬唐代,但至少可以說其帶有宋以前的風格樣式。
我認為應當首先將此視為赤繪的濫觴。及至明代,中國典籍記載有「成化五彩優於宣德」等語,足見當時已能產出極為精巧的赤繪。赤繪由此大為興盛,並逐漸演進;到了明末天啟、崇禎年間,便出現了我國所謂的「南京赤繪」。其中存有帶天啟年號之器,即便在南京赤繪中亦屬紋樣極其大膽奔放且頗富趣味的作品。方才提及的宋赤繪,理應視為在定州、邢州、磁州等直隸省北方所燒成。此外,尚有所謂「吳須赤繪」。吳須赤繪在現今中國實地考察幾乎難尋蹤跡,反倒呈現出唯獨日本存留、中國境內全無的現象。
近代雖然有各式器物自中國傳入日本,但吳須赤繪卻絲毫未見輸入。過去這類器物一直被視為明代之物,但近來得知山東博山一帶曾出產此類陶瓷,這記得是滿鐵上田先生所提出的學說。此說極富深意:若宋代赤繪的系統確實有所傳承,博山距離鉅鹿里程亦不算遙遠,因此相較於景德鎮,由山東承襲宋代窯業脈絡從地理區位來看是極為合情合理的。由此推論,宋窯赤繪傳播至山東,在博山窯燒製為赤繪民間雜器,這或許正是所謂「吳須赤繪」的由來。
然而在景德鎮方面,自明代中期至萬曆年間,在青花(染付)之上施加赤繪的技法大幅發展,進而製作出極為華麗的器物,殊在萬曆年間,出現了一種被稱為「萬曆風」的風格。到了明末的天啟、崇禎時期,其紋樣在感覺上變得更加自由。舉例來說,被冠以「萬曆」之名的器物,大多描繪唐草,或是牡丹、雲龍之類;然而從天啟到崇禎、明末所謂的「南京赤繪」中,既有山水、亦有道釋人物,乃至花鳥題材皆備,紋樣內容極為豐富且筆法自由。雖然普遍而言其筆觸描繪顯得較為草率粗放,但相對地從藝術趣味的角度來看,卻呈現出非常耐人尋味的佳作。
到了清朝康熙時期,眾所周知康熙朝是盛行仿造中國古代陶器的時代,當時磁器(瓷器)的釉上彩繪有了極大發展,發明出一種被稱為「康熙紅」的高雅紅色,因而成為日本陶工鑽研紅色的目標。為了燒造出康熙紅,自古以來日本陶工費盡了極大的心血。由於那種顏色極難燒出,為了呈現該色而大費周章的苦心歷程,留下了諸多記載。然而若從紋樣上來說,到了康熙時期,紅色已不再是主要基調,逐漸加入了綠色、或藍色、紫色、黃色等其他色彩,紅色的比重反而減少了。這是因應對色彩鑑賞趣味提升而生的現象,我認為也是理所當然的發展。但如此一來,作為「赤繪」的生命力便隨之漸次喪失。
從雍正到了乾隆時期,其他顏色反而成為主調,已不再是稱作赤繪這類東西,被稱為「五彩」或「錦手」的作品反而變得更多了。
因此,若單從紅色的色澤品味而言,康熙紅已達到了演進的極致。從赤繪本身的立場來說,這之後或許可以說是走向了墮落;但若從色彩的鑑賞趣味來看,康熙之色正是審美發展達至頂峰的代表;到了雍正時期,對色彩的品味在極度向上、洗練之極後,亦可認為已略微開始走向下坡。就「紅」這種顏色的角度而言,以往粗質樸拙的赤繪到了康熙轉為高雅,正可被視為失去赤繪獨特風格的原因。然而,正如大家所知,中國乃是一個連相當古老的樣式都能流傳延續至今的國度,因此赤繪作為民藝粗器(下手物)依然延續著它的生命;在如博山一帶、遠離陶瓷中心景德鎮的鄉間製陶產地,這類古拙樣式或許一直保留到了後世。
中國赤繪的發展暫且談到這裡。若問朝鮮的情況又是如何?一般認為高麗王朝時期並無赤繪。直到李朝中期受到明朝影響,才首度出現了赤繪。然而其赤繪傳世品極為罕見,現今幾乎僅剩十指可數的數量。從這一點來推想,雖屬臆測,但或許是明朝工匠來到朝鮮燒造赤繪,在工匠返回明朝之後便無法再行製作,正因遺物稀少,方使人產生這種推論。
至於日本的赤繪,相傳始於正保三年(一六四六年)明末紹武元年,當時正值鄭芝龍為匡復明室向日本幕府請求援兵的時代,在此後十九年明朝滅亡,而相傳就在那段時期柿右衛門製成了赤繪。這種柿右衛門赤繪不久便傳入加賀,文獻記載早在正保年間加賀便已燒製赤繪。此外,赤繪也傳到了仁清手中。傳給仁清的年代雖不明確,但仁清的卒年有萬治元年或寬文六年兩說;若先假定為萬治至寬文前後,即意味著伊萬里的赤繪在不出十年之內便傳到了京都。然而關於這柿右衛門赤繪,純粹以年代推論,如果柿右衛門是見到當時流入九州地區的中國赤繪而仿造出來的,那無論如何都必定得是明末之物,其紋樣也必須帶有明末的樣式風格才合理。
然而,在柿右衛門赤繪的紋樣之中,卻無論如何也察覺不到明末赤繪的氣息。這就意味著,當我們觀察現今坊間所稱的柿右衛門、被傳為初代乃至前三代的柿右衛門作品時,不得不重新深思:那些究竟是否真為第一代、第二代或第三代柿右衛門所造?反倒是九谷的作品中,依然殘留著萬曆至天啟、崇禎年間的赤繪風格。從這一點來看,對於現今我們所見到的所謂柿右衛門作品,是否首先有必要將其製作年代往後下修?同時探究初代柿右衛門的赤繪究竟是何種風貌?接著再進行第二階段——探討九谷的脈絡,我認為這才是研究上理所當然的步驟。也就是說,首先應考慮將目前我們認為屬於初代乃至前三代柿右衛門的作品年代往下推移,同時探明初代柿右衛門赤繪的原貌,進而探討古九谷赤繪究竟是何等面貌,這才是合宜的研究路徑。
注:大正十五年(西元 1926 年)時,酒井田柿右衛門家正值第十一代與第十二代交接之際
與此同時必須思考的是:被稱為「吳須赤繪」的器物若出自明代,則無論如何伊萬里與九谷理應都會融入吳須赤繪的樣式;然而古伊萬里與古九谷卻未見此風格,反倒是京都由奧田潁川燒造了這類赤繪。若潁川是仿造吳須赤繪的代表人物,潁川卒於文化八年,在中國相當於乾隆年間;如此一來,現今我們視為明代的吳須赤繪,若將其視作當時由中國傳入的新意匠陶瓷,年代就必須下修至乾隆時期。當然,也可能是中國人攜來了古代舊物、日本人喜愛而加以摹仿;但與此同時,傳入的是新製之物而非舊物的可能性亦能成立。這樣的話,吳須赤繪並非全屬明代、亦有下至乾隆時期的產物,考慮將其年代下修,我認為先有這一層思考也是十分要緊的。然而,若吳須赤繪承襲的是宋代赤繪樣式,那麼明代出現吳須赤繪自然是想得通的,且正因其產自鄉間窯場,這項傳統一路持續燒造到很晚的年代也是可以理解的。
特別是像山東博山窯,屬於民窯而非官窯,燒造出來的器物屬於粗俗質樸之物(下手物),未受中國中央與宮廷喜愛,反而直接流入日本,我認為也是理所當然的。如此一來,又出現了吳須赤繪未必僅止於乾隆前後的情形。後來吳須赤繪在京都以永樂保全、和全及道八等陶工為中心被競相摹仿,隨後傳至尾張,在犬山也盛行燒製。然而這類風格在九州地區全然未見模仿,在九谷地區亦未被仿造,實為奇特之現象。這或許是因為傳入的港口地點不同,或是直接運抵堺港,因而直接輸入了日本中樞的京都,未能進入伊萬里。不過這終究是推測,或許也可能是九谷、伊萬里等地方的風雅品味,與當時身為文化中心的京都趣味有所不同——在伊萬里一帶喜愛明末清初作工繁複華麗之物,而京都方面則偏愛質樸簡素且韻味深長的赤繪,這樣的推想也是可行的。我認為這是一個相當值得深入研究的問題。關於日本赤繪的發展,暫且先談到此處。
接下來想探討赤繪的分類——究竟有哪些種類。我認為首先以赤繪的樣式來分類最為合宜:
其中第一類是「宋赤繪」;由於世人對宋赤繪不太熟知,與其稱作宋赤繪,倒不如稱為「吳須赤繪」更為妥當。吳須赤繪作為一種樣式極具顯著代表性,屬於此系統的即為宋赤繪與潁川赤繪,是在器物上施以質樸簡潔圖案的上彩作品。
第二類是「萬曆赤繪」,這也自成一種樣式,大多是在青花之外再施加彩繪;即伊萬里等地所稱的「染錦」,在青花之上加上彩繪(赤繪),此為其一。
第三類稱為「南京赤繪」,雖然其紋樣同樣施於青花之上,但紋樣風格與萬曆赤繪不同,構圖大膽奔放、題材豐富且自由。
第四類是「康熙赤繪」,其紋樣轉趨精細繁複且富寫生感,特別是其紅彩獨具一種典雅高貴的品味。
第五類是「柿右衛門赤繪」,它本身構成了一種獨特樣式;而將南京赤繪與康熙赤繪兩者融合而成的產物,我認為即是「古九谷赤繪」,然而古九谷的紅彩與康熙紅截然不同。
第六類是「伊萬里赤繪」,亦即伊萬里的「錦手」,這既不同於萬曆赤繪,也不同於南京赤繪,主要是以青花為底再施加彩繪;從系統譜系而言,當然是由康熙、雍正、乾隆年間的器物演變並在日本本土化後的產物,湖東燒、京都的赤繪錦手等皆可視為屬於此系統。
第七類是「飯田屋赤繪」,雖屬於九谷,但其赤繪風格自成一格,此系統的作品在文化以後至天保年間的其他地區亦多有產出。第八類應被列為獨立樣式的,是「萬古」與「安東」的赤繪,這種赤繪的紋樣主要是取材自印花布(更紗),在紋樣的題材內容上與其他種類全然不同。

內頁附圖 吳須赤繪盤
此為所謂「吳須赤繪」的一件典型標本。其筆觸大膽奔放、構圖不拘一格、色彩鮮麗絢爛,是一件極富鑑賞趣味的佳作。吳須赤繪的紋樣常呈現出牡丹、龍、鳳凰、獅子、飛雲、魚等特定風格樣式,亦有結合山岳與方塊化幾何文字圖案相搭配的裝飾紋樣。
彩壺會編撰,大正15年5月25日由三秀舍印刷『染付與赤繪』本書第51頁~72頁 日語原文如下:
赤繪とは何ぞや――赤繪と云ふのは世間では色々な種類の物を云つて居りまして、萬暦赤繪のやうな物も又柿右衞門風のものも赤繪と云つて居ります。それから赤色の模様が勝つて居る九谷も赤繪と云ふことがあります。さうかと思ふと伊萬里の錦手も時によると赤繪と云ひ、九谷燒の中でも飯田屋と云ふやうな金と赤で模様の描いてあるものを赤繪と云つて、他の物を赤繪と云はぬ場合もあります。さうかと思ふと丁度支那の三彩と云ふやうな、赤と綠、黄で上繪附をしてあるものを赤繪と云ふ事もあります。
其他支那の五彩、即ち赤と綠と黄と紫、藍の五つの色で文樣の附けてあるものも矢張り赤繪と云ふ事もある樣です。又呉須赤繪と云ふものは、是は重もに赤と綠釉で繪付したものであります。南京赤繪と稱するのは寧ろ五彩の方に入るもので、是も赤と綠、黄、場合によると紫、それから染付の藍色が中に這入つて居ります。それから世間で伊萬里燒に赤と綠、黄、紫、藍の五つの色が重もに使つてあるものを錦手と云ふかと思ふと、又赤繪と云つて居ります。其中に金の入るものは別の物として、錦手と云はず金欄手とも申す場合もある樣であります。赤色釉を其裝飾文樣に主に加へたものを赤繪と云ふならば、加賀の飯田屋八郎右衞門の窯で燒いた所謂飯田屋赤繪、或は八郎金欄手と云ふが如きものが眞の赤繪であるかも知れませぬ。
只今御話しました錦手は、染付に藍の入つて居ないもので、藍色が染付で入つて居るものを、染錦と云つて居ります。それから柿右衞門の赤繪でありますが、是も支那の五彩に入るもので、赤、綠、紫、藍、之に黄も入つて居りますが、之には染付が有るのと無いのと兩方あつて、普通柿右衞門の赤繪と稱するのは染付のないものを云つて居る樣であります。萬古や安東の如きも赤繪に屬するものであるが、普通に萬古赤繪と稱するのは一種特別のものであつて、是は赤色のみで文樣が畫いてあります。斯う云ふ工合に申して參ると赤繪と云ふのは非常に廣い意味であつて、赤の顏料の使用してあるものは皆赤繪と云ふことになります。一般世間で謂ふ赤繪と云ふものを集めて考へて見ると、斯う云ふことになるかと思ひます。
そこで是を概括して申して見ますと、陶磁器の上に赤色の釉藥、即ち紅殻(酸化第二鐵)を主調として綠、黄、紫、藍の簡素な上繪附の文樣を施したものが赤繪、斯う解釋するのが至當かと思ひます。
先づ之で所謂赤繪の概念を一つ極めたのでありますが、それでは赤繪の釉はどう云ふものであるかと云ふことを考へて見やうと思ひます。赤繪の中の最も重要なる色は赤であるが、赤は今言つた酸化第二鐵、即ち紅殻であります。紅殻に布糊、糖蜜、アラビヤ護謨、松根油やうなものを加へて素地の上へ文樣を附けて燒付けたものであります。綠は重に酸化銅で、酸化クローム、之を兩方配合して綠の色を出します。其次に黄は酸化鐵と鉛丹と白玉のやうな物を混合せて黄色を出す、それから紫は酸化滿俺を使ひ、藍は酸化コバルトを使ふ、斯う云ふやうな繪具で素地の上へ文樣を燒付けて上繪付をしたのであります。
赤繪の發達――次に赤繪はどんな工合に發達して來たか、極概略を考へて見ると、赤繪も矢張り支那が本元であつて、極古い物では漢の陶器と稱する瓦胎のもの、即ち、瓦のやうな灰黒色の素地の物に朱土や白土の如きもので文樣を描いたものがあります。若し赤の繪具を使つたと言ふことを以て赤繪とするならば、先づ是が一番古い物ではないかと思ひます。併し現在の所謂赤繪と云ふものには當らぬかも知れませぬ。素地の釉の上に上繪付をした物は何時から現はれて居るかと言ふと、實際は古く造られて居たかも知れませぬが、現在遺品として吾々の眼の前に現はれて居る物では、一番古い物は宋代の物で、陶器の上に例の白化粧、即ちエンコーベをやつて、其上に釉をかける、其釉は重もに灰釉であらうと思ひますが、さうして其上に赤、綠、黄で繪が描いてある、是は最近になつて段々分つたのでありますが、例の直隷省の定州から南、磁州から北、順徳府の「內邱」と云ふ所がある……內邱及順徳の東に鉅鹿と云ふ所がある、最近に此處から赤繪の物が大分出ました。これは旱魃の爲に水が無くなつたので、水を得る爲に穴を掘つた所が、其下から掘出された大小の皿鉢が十四ばかり出て、これに年號がある、此種類の陶器を鉅鹿陶と大連の小森君などは言つて居る所のものであります。是は何處で燒いたかと言ふと邢州邊ではありますまいか、即ち唐代の邢磁と云はれるもので、其皿鉢の裏に年號が墨書してありました、「泰和元年二月十五日」とありまして「記」と云ふ字及花押が書いてあります。是れが無いのもあります。さう云ふ物か十四ばかり出て、日本には五つ六つ參つて居るやうであります。泰和元年は金の年號で、南宋の寧宗の時代で嘉泰元年、西曆千二百一年に當ります。是は宋でもずつと後になりますが、所が鉅鹿から發掘された物に(勿論赤繪のものではない樣でありますが)大觀二年と云ふ年號のものがあります。是は少し古くなつて千百七年、宋の徽宗の時代であります、もう一つはもつと古く元祐七年、是は千九十二年、であります。これから崇寧二年、是は少し新しくなつて千百三年であります。是等は造られた時に書いたのであるか、或は墓場か何かに埋められる時に書いたものか、何れにしても宋より降るものでないことは分ります。さうして見ると赤繪は少くも宋代に於て造られたと言ふことが考へ得られると思ひます。此赤繪の皿には極簡單ではありますが、非常に達筆に牡丹やその他の草花や鳥が描いてある。牡丹の花を赤で描いて葉は綠、皿の椽には黄色い釉が塗つてある。此文樣は唐や日本の天平時代の物と云はれて居る色々な工藝品に、文樣として附けてある、家鴨の文樣、或は雁の飛んで居る文樣、即ち我が奈良の正倉院の御物の中にも澤山ありますが、これと同じ文樣が同じやうな樣式を以て施されてあります。これを以て直に是が唐であるとは申されないが、少くも宋以前の樣式の物とは言はれるだらうと思ひます。先づ是が赤繪の初めと見なければならぬかと存じます。
然るに明の時代になりますと、支那の書物に成化の五彩は宣徳に優ると云ふやうなことも書いてありますから、既に精巧なる赤繪が出來て居つたことが考へられる。さうして赤繪が盛んに出來て、漸時發達して明末の天啓、崇禎頃には我國で所謂南京赤繪と云ふ物が出來ました。其中に、天啓と云ふ年號のある物があつて、南京赤繪としても頗る放膽な文樣のある面白いものが出來て居ります。今言つた宋の赤繪は定州、邢州、磁州、直隷省の北方で出來たものと見なければなりませぬ。此外に所謂呉須赤繪と稱する物があります。呉須赤繪は、現在に於ては支那へ行つても一向眼に着かぬもので、日本のみにあつて支那には一向無い物の樣に考へられて居ります。最近種々な物が支那から持つて來られますが呉須赤繪は一向持つて來られない、是は今までは明の物として考へられて居つたが、最近山東の博山に於て斯う云ふ物の出來て居ることが分りました、是は滿鐵の上田氏の説であつたと思ひます。これは甚だ面白い説で、若し宋の赤繪の系統が傳はるものとするならば、丁度鉅鹿から里程もそれ程遠い所でないから、景徳鎮より山東の方が宋窯の系統を傳承すると云ふことは、場所の關係から見ても當然のことではないかと思ひます。そこで宋窯の赤繪が山東に移つて、博山窯で赤繪の雑器が燒かれた、それが所謂呉須赤繪になつたのではないかと思ひます。然るに景徳鎮では明の中期から萬暦になると、染付の上に赤繪を付けた物が發達して立派なものが出來まして、殊に萬暦には萬暦風と云ふ一種の樣式が出來て居ります。是が明末の天啓から崇禎になると、其模様が自由になつて居るかの様に思はれます。例を擧げると萬暦と稱する物には大抵唐草、或は牡丹、雲龍の如きものが描かれて居る、所が天啓から崇禎、明末の所謂南京赤繪には、山水もあれば道釋もあり、花鳥もあると云ふ工合に、非常に文樣の内容が豊富になり、自由になつて居りまして、一般には其描き方がぞんざいになつて居るが、其代り又趣味から云ふと非常に面白いものが現はれて來て居ります。これが清朝の康煕になると、康煕は御承知の通りに支那古代の陶器を盛んに模造した時代でありますが、其時には磁器の上繪付が非常に發達をして、一種の康煕赤と稱する上品な赤色が發明されて日本の陶工の赤色の研究の的になつたのであります。康煕赤を造らむが爲に古來日本の陶工は非常な苦心をしたのであります。其色が中々出ないので、此色を出す爲には大變に骨を折つた苦心談が澤山に殘つて居ります。所が文樣の上から云ふと康煕になつては赤色が重もなる調子ではなくして、段々緑とか或は藍だとか、紫とか黄と云つたやうな他の色が多くなつて、赤の色彩が少なくなつて居る。是は色に對する趣味の向上から生じた現象で、當然のことであらふと思ひます。然しさうなると赤繪としての生命が段々無くなつて來る譯になります。雍正から乾隆になると他の色が寧ろ主調となつて、赤繪と云ふやうなものでなくして五彩或は錦手と稱するやうなものが多くなりました。
さうして赤の色合から云ふと康煕の赤は進歩の極度に達しました。是からは赤繪と云ふものから言へば、或は墮落して仕舞つたとも云へるかも知れませんが、又色の趣味の上から言ふと康煕の色は趣味が發達して來た頂點に達したもので、雍正になつては色に對する趣味が向上、洗煉の極、稍下り坂に向かつたとも考へることが出来ます。赤と云ふ色の點から云ふと、從來の粗朴な赤繪が康煕になつて上品になつたと言ふ事が、赤繪の特色を失ふ原因になつたと考へられませう。併し支那は御承知の通り、隨分古い樣式が現在までも傳はつて居る國でありますから、下手物として猶其生命を持續して居りますから博山あたりの所謂陶器の中心地なる景徳鎮から離れた製陶地としての田舎では、それが後世迄殘つて居るのではないかと思ひます。
支那の赤繪の發達は其位にして、朝鮮はどうかと云ふと、赤繪は高麗朝にはなかつたと考へられます。漸く李朝半ばになつて明の影響を被つて、初めて赤繪が出來たのであります。併し其赤繪の遺品が甚だ少いのでありまして、現今では殆ど十指を以て勘定する位しか遺つて居ないのであります。これを以て考へて見ると、臆測ではあるが、恐らく明の工人がやつて來て、朝鮮で赤繪を燒いて、其工人が明へ去つた以後はもう出來なくなつたのではないか、遺品が少い爲にさう云ふ考へも可能になりはしませぬか。日本に於ける赤繪は正保三年(千六百四十六年)明末の紹武元年であるが、丁度鄭芝龍が日本の幕府に、明國を興す爲に援兵を願つて出た時代である、其後十九年經つて明が滅びるのでありますが、其頃に柿右衞門が赤繪を造つたと云ふことが傳はつて居ります。此柿右衞門の赤繪が間もなく加賀に移つて、同じ正保頃に既に加賀で赤繪が燒かれたと云ふことが記錄に殘つて居ります。其外仁清にも此赤繪が傳はりました。此仁清に傳はつた年代は明瞭でありませぬが、仁清の没年には萬治元年とも寛文六年とも云ふ説がありますが、先づ萬治から寛文あたりとすると、十年ならずして伊萬里の赤繪が京都に移つたことになります。所が此柿右衞門の赤繪は、丁度年代から言ふと、其當時九州地方へ來た支那の赤繪を柿右衞門が見て之を拵へたとするならば、どうしても明末の物でなければなりませぬ。其文樣にも明末の樣式が入つて來なければなりませぬ。
所が柿右衞門の赤繪には、明末の赤繪の感じがどうも其文樣の中に發見されない、と云ふことは現在世間で云ふ柿右衞門を吾々が觀察して、其の初代であらう、三代前であらうと言はれて居る柿右衞門の作品が、果して實際に初代なり二代なり三代なりの柿右衞門の造つたものであらうか、と云ふことを考へて見なければならぬのではないかと思います。寧ろ九谷の方に萬暦から天啓、崇禎あたりの赤繪風が殘つて居る所を見ますと現在の吾々の見る所謂柿右衞門の作品は、其製作の年代を先づ引下げる必要がありはしないか、初代柿右衞門の赤繪はどう云ふ物であるかと云ふことを探る必要がありはしないか、次に第二段として九谷に付て考へるのが當然ではないかと思います。即ち先づ現在吾々が考へて初代柿右衞門の作品である、三代までの柿右衞門であると考へる作品の年代を引下げることを考へ、同時に初代柿右衞門の赤繪はどう云ふものであると云ふことを探つて、然らば古九谷の赤繪はどう云ふものだらうと云ふ所へ行くのが、其研究徑路としては當然ではなからうかと思います。同時に考へなければならぬのは、呉須赤繪と稱する者が出來たのが、若し明とするならば、どうしても伊萬里及九谷にも呉須赤繪の樣式が這入らなければならぬ、所が古伊萬里や古九谷に之が見られずして、京都で奧田頴川が赤繪を造つて居る。其頴川が呉須赤繪摹仿の代表者であるならば、頴川は文化八年に死んで居るから、支那で言ふと乾隆である、さうすれば現在吾々が考へて明であると思ふて居る呉須赤繪を、當時支那から傳はつた新意匠の陶器とするならば、之は乾隆まで下げなければならぬ。勿論古い物を支那人が持つて來たのを、日本人が喜んで眞似したのかも知れないか、同時にさう古い物でなく新しい物が入つたと言ふことも考へ得られるのであります。さうすると呉須赤繪はそれが總て明でなくして、乾隆頃までの物もあると年代を引下げると云ふことを、先づ一つ考へることも肝要ではないかと思います。併し呉須赤繪が宋の赤繪の樣式を追ふたものとするならば、矢張り明代にも呉須赤繪が出來たと云ふことは考へ得られることで、さうしてこれが田舎の窯であるから、ずつと後まで引續いて出來たと云ふことも考へなければならぬ。殊に山東の博山の窯の如きは、官窯でなく民窯であつて出來たものは下手物であるから、是が支那の中央に喜ばれずして、寧ろ日本に入つたことは當然ではないかと思ふ。さうすると必しも呉須赤繪が乾隆頃の物とも考へられぬやうな事情になつて來る。さうして呉須赤繪は京都を中心として永樂保全、和全、道八その他の陶工に依つて摹仿されました。それが尾張に移つて犬山でも盛んに造る樣になりました。所が是が九州地方では一向模倣されず、九谷地方でも模造されて居ないと言ふことは、不思議な現象だと思ひます、是は殊に依ると輸入された場所が違ふのではないか、或は直接に堺にでも持つて來たのではないか、これが爲に日本の中心の京都に入つて、伊萬里に入つて行かなかつたのではないかと考へられる。併し是は臆測であつて或は九谷、伊萬里あたりの地方の趣味と、其當時の中心たる京都の趣味とが違つて、伊萬里あたりでは明末、清初あたりの手の込んだ美しい物が喜ばれて居るのに、京都の方では簡素な、趣味の深い赤繪が喜ばれたのではないか、斯うも考へられる。是は可なり研究しなければならぬ問題ではないかと思います。先づ日本の赤繪の發達に關しては此位に止めて置かうと思います。
そこで赤繪の分類、――どう云ふ種類があるかと云ふことを考へて見やうと思います。先づ赤繪の樣式から分類するのが宜いと思ひますが、其中で第一は宋赤繪、宋赤繪と云ふものは餘り世間に知られて居ないから、宋赤繪と云ふよりも呉須赤繪と云つた方が宜くはないかと思ひます。呉須赤繪が一つの樣式として著しい物である、此系統に屬するものは宋赤繪、頴川赤繪で簡素な一種の模様を上繪付したものであります。第二は萬暦赤繪、是も一つの樣式をなすものでありまして、多く上繪の外に染付が加はつたものであります。伊萬里などで言ふ所謂染錦であつて、染付の上に赤繪を加へたもの 是が一箇、第三は南京赤繪と稱するもの、是は勿論文樣が染付の上に加はつて居るが、文樣の性質が萬暦赤繪とは違ひます。文樣が放膽で内容が豊富になつて、自由になつて居ります。第四に來るものが康煕赤繪、是は文樣も精緻になり複雜になり、寫生的となりますが、特に赤の色彩が一種類特別な上品なものになつて居ります。第五が柿右衞門赤繪、是が一つの樣式を形作つて居ります。(南京赤繪と康煕赤繪の二つを混合して出來上つたものが古九谷の赤繪であると思ひます。然し其赤色は康煕赤とは非常に違ひます。)第六に伊萬里の赤繪、即ち伊萬里の錦手であります。是は萬暦赤繪とも違ひ南京赤繪とも違つて、重もに染付が土臺になつて赤繪が加はつて居る。勿論系統から言ふと康煕、雍正、乾隆あたりの物から出來たもので日本化されて居ります。湖東燒、京都の赤繪錦手等は此系統に屬するものと見る事が出来ます。第七は飯田屋赤繪、九谷ではありますが此赤繪は一種獨特のものであつて、此系統のものは他の地方でも文化以後天保あたりの物に多く出來て居ります。第八に一の樣式として數へらるべきものは萬古と安東の赤繪であります。此赤繪の文樣は更紗を主として探つてあつて、文樣の内容が他の物とは全然變つて居ります。
