此篇文章是摘錄自『現代日本的陶藝家們:有田・唐津(西元 1990 出版)』雜誌,金子賢治所寫關於香蘭社和深川製磁,這兩家從明治時代以後開創的知名有田燒會社,從其外銷瓷器設計中所見的另一段有田陶瓷史。本文的重點在於,有田燒是如何從傳統手繪藝術創作,轉型為能夠批量生產並外銷出口的近代工業產品。

除了以伊萬里燒、柿右衛門窯、鍋島燒所傳頌的四百年陶瓷史之外,有田還有著另一種面貌。那就是香蘭社與深川製磁歷經長年辛勤耕耘所築起的近代工業陶瓷史。而將這段歷史以更直接的視覺形式傳達給人們的,正是這兩家公司所流傳下來、自明治至昭和初期的外銷瓷器圖案。這些圖案的一部分曾於《有田の紋樣(1977年出版)》中公開發表,1989年在東京國立近代美術館舉辦的「圖案的演變 1868—1945」展覽中也曾加以回顧展示。
從JR佐世保線的有田站出發,正對著坐落於微傾丘陵上的佐賀縣立九州陶瓷文化館,往左側前行一段路便會抵達香蘭社,再往前走幾步則是深川製磁。
香蘭社
香蘭社的社舍建築幾乎完整保留了明治時代建造時的樣貌,進門後右手邊是事務所棟,左手邊則是經營者深川家的居所。其中還有一棟據說在江戶末期曾與荷蘭人進行貿易往來的「異人館」。作者金子賢治造訪時是約 1985 年左右的十月初,在秋高氣爽的晴天裡,展開了一段不同於長崎氛圍、悠閒漫步於江戶末期至明治風貌的探索之旅。
負責接待的年輕同仁先帶我參觀了事務所棟二樓的展售廳,接著順著一段略呈螺旋狀、極具明治風格的樓梯登上三樓,那裡陳列著明治以來的各項產品。展示室中展出了圖案的一部分,包括供明治、大正、昭和天皇即位大禮專用的大花瓶等。更深處則是明治初期以來的貴賓室,裡面陳列著曾於1915年舊金山萬國博覽會榮獲最高獎的「染錦御所車大花瓶」等珍品,懸掛於中央的小型吊燈安裝基座上,還鑲嵌著明治時期的盤形裝飾陶板。

至於圖案資料,據說目前仍作為設計參考資料用於生產中,因此放在工廠內,於是我前往鄰近的第一工廠內參觀。為了耐受頻繁翻閱,這些圖案都被收納在塑膠活頁夾中,全部共有近三十冊之多。首先映入眼簾的是蓋有「佐賀縣博覽會事務局」朱文方印的檔案。
香蘭社自明治六年(1873年)的維也納世博會以來曾參加過多次國內外的博覽會,這些圖案究竟對應哪一場盛會,仍有待未來的深入研究。此外,在昭和十年(1935年)前後,當時擔任商工省陶瓷器試驗所(京都、瀨戶)意匠部長的水町和三郎(與社長第十代深川榮左衛門的女兒結婚)負責了圖案設計。從畫有凋落葦花紋的咖啡器具組圖案等作品中,可以窺見當時堪稱「商工省樣式」的風貌。這樣的圖案,被認為是明治三十年代後半的圖案融合新藝術運動(Art Nouveau)風格轉型時期的產物。這與明治三十年代後半,在京都推動新藝術風格圖案創作與普及活動的洋畫家*淺井忠一脈之圖案頗有相通之處。它似乎稍微洗去了殘留於其中的明治藝式紋樣氣息,推測可能是大正時代初期的創作。
譯注:淺井忠生於1856年,他是日本明治初年最早學習西洋美術的畫家之一,師事義大利人安東尼奧・豐塔內西(Antonio Fontanesi),偏向以褐黃的色調描繪帶有巴比松畫派般,田園牧歌氣質的日本農村風景,有時則融入日本浮世繪的驛路風景主題。。
香蘭社的發端,是在明治時代時原本經營深川商店的八代深川榮左衛門因在陶瓷絕緣子(碍子)的生產中獲得信心,於明治八年(1875年)與深海墨之助、辻勝蔵等人為了生產外銷瓷器,而共同創立的合本組織「香蘭社合名會社」。到了明治十二年(1879年),轉由深川榮左衛門一人接手香蘭社,並延續至今。
經歷了明治六年(1873年)的維也納世博會、明治十年(1877年)起的內國勸業博覽會,以及明治十一年的巴黎世博會等盛事後,榮左衛門深切體會到機械化的必要性,遂藉參加巴黎世博會的契機採購了法國製的製陶機械,開啟了機械化的序幕。然而,機械化要真正普及至絕緣子、餐具以及高級美術陶瓷全體並順利展現生產成效,已經是明治三、四十年代的事了。
在大正年間,特別是第一次世界大戰之後,由於歐洲各國百廢待興,對美出口得以大幅增長。為此,廠方在造型、彩繪與圖案設計上也傾注心力,據說在美國獲得了超乎預期的熱烈好評。
進入昭和時代後,隨著日本的海外侵略步伐,為推動產業合理化並爭取工藝品的海外市場,商工省工藝指導所於昭和二年(1927年)成立,商工省陶瓷器試驗所也沿著此一方針展開了研究與製作活動。昭和六年(1931年)左右為拓展歐美市場而製作的「和風韻致西式餐具」即是其中一例,當時還舉辦了和風韻致西式餐具圖案的座談會,並積極參與商工省輸出工藝展。該所第二部意匠圖案研究部部長水町和三郎便居於指導地位。香蘭社亦接受其指導,積極投入外銷餐具的圖案開發,並曾於昭和八年(1929年)商工省全國風格品展示會中榮獲進步獎等殊榮。
在前述的圖案資料中,可以切實看見這段歷史的真實映照。順帶一提,據傳曾參與圖案創作的作家包括川浪竹山、荒木探令、川崎千成、納富介童(明治末期至大正初期),以及水町和三郎、池田善左衛門、川浪計次、柿澤市郎、廣瀨玄甫、辻直男、江原卓郎等人,這些人物的具體貢獻同樣有待未來更詳盡的研究。

深川製磁
深川製磁是由第九代深川榮左衛門(香蘭社第二代社長)的弟弟—深川忠次,於明治二十七年(1894年)所創立。該社同樣專門生產外銷瓷器,於明治四十三年(1910年)成為宮內省御用達,隔年則在*鍋島侯爵等人的贊助下擴大事業規模,並延續至今。
譯注:肥前佐賀藩第11任藩主、特命全權公使、貴族院議員鍋島直大。
走進社舍的正門,迎面是一座寬敞的展售廳,但這是一座後世興建的建築,與創立當初的古老木造社舍相連。那座創立之初的社舍二樓便是展示室,按年代先後依序展出明治以來的各項製品。其中格外引人注目的,是曾在明治四十五年(1912年)美國聖路易萬國博覽會上榮獲大獎的「染錦金襴手丸紋鳳凰文大花瓶」。在展品當中,還有與「在檜木葉狀的葉片間散綴著白、紅、黃三色鳶尾花(菖蒲)」的圖案完全採用相同紋樣的盤子等。
這座展示室隔壁就是深川磁器藝術室,專門從事新產品的設計研究與試製品的製作等工作。在我造訪參觀圖案的那天,室長深川巖先生帶領著年輕的設計師們正在工作,其中一位女性設計師還送給我一張她近期即將在東京舉辦作品展的邀請卡。
「這個,是我們試做出來的喔。」
深川巖先生拿給我看的,是一件完全依照圖案製作的「明治」風格高足缽。無論是純白的瓷面還是青花的呈色都燒製得極為出色,散發著恰到好處的光澤。雖然對創作者有些失禮,但那一刻我彷彿與明治時代那種悠然自得的氛圍不期而遇。有田不像長崎,長崎的出島已失去原有的歷史風貌,地方也在觀光資本的介入下變得支離破碎,處處充斥著拘謹而刻意營造的「洋味」。歷史在此處依然靜謐而鮮活地呼吸著。
至於深川製磁的圖案,都被妥善收納於折疊畫冊(帖紙)中悉心保存。這些圖案絕大多數屬於明治後期(三、四十年代)。正如圖中所見,器皿的畫面上工整嚴密地佈局著風格化(樣式化)的紋樣。雖然並非有什麼固定的規範,但其構圖與佈局的方式既具構築感又充滿力量。每幅圖案中都流淌著一種共通的基調,讓人感受到一股貫徹始終的堅定意志。香蘭社隨著時代情勢靈活應變,從江戶鍋島風格的演變,到新藝術運動、商工省樣式等;與之相比,深川製磁在圖案的基本理念上顯得截然不同。當然,這也是因為深川製磁圖案的製作時期相對集中,但即便如此,這個時期特有的新藝術運動隨性筆觸,或是鍋島、古伊萬里的巧思變形等要素,在深川製磁中卻幾乎付之闕如。箇中緣由究竟為何,明確的結論仍有待未來的研究去解答,但可以確定的一點是:深川製磁創立之時,恰逢機械工業逐漸發揮實質成效的時期。
延伸閱讀:深川製磁與深川家的軌跡|昭和49年(1973)產品目錄
對於明治工藝原本的運作模式——即在政府行政主導下,由「日本畫家(負責圖案)—工藝職人(負責製作)」的分工體系來進行生產,人們開始產生反思,大約是在進入明治二十年代的時候。機械工業的進展促使業界重新檢視日本畫風格的圖案設計,這在其中構成了極為重要的因素。

舉例來說,圖案必須能經得起批量生產,並同時獲得歐美社會的認可。
歸根結底,這意味著圖案不能再停留在單純繪畫式表現的層次,而必須讓裝飾性紋樣明確彰顯出其作為「紋樣」本身的特質。回顧同時期高島屋或野口彥左衛門商店(京都)的染織圖案,也已經從明治時期的四條派、南畫風圖案大幅演進,展現出一種兼具幾何感與抽象性特徵的獨特風格。例如,高島屋的「竹與櫻紋樣友禪圖案」,是在朱紅色的竹林間,以錯視畫(Trompe-l’œil)風格纏繞著青綠色的櫻花枝;野口商店的「大竹與菊友禪圖案」則是讓數根竹子交叉,在竹筒內部繪製菊花等圖樣,而在各個交叉間隙內部,又緊密填滿了如細緻織紋或型田搓染般的細密紋樣。整幅畫面宛如呈現出由「繪畫式表現」邁向「裝飾性紋樣」在轉型過程中的沉重、甚至是帶有幾分焦躁躁動的氛圍。
譯者注:作者提到高島屋與野口彥左衛門商店,並不是因為它們和香蘭社、深川製磁有直接關係,而是把它們當成同一時期「圖案設計轉型」的比較案例。舉例來說:高島屋從明治十五年左右開始,便委託岸竹堂、今尾景年、竹內栖鳳等京都日本畫家,替出口染織品設計下繪。這使它成為研究「日本畫如何轉化為工藝圖案」的重要案例。。
這種新型圖案的誕生時期,恰好與深川製磁的創立時期完全重合。
然而即便身處這樣的時代背景,深川製磁的圖案世界卻超越了那種過渡期的狀態,說它已經達到了一種成熟完備的境地也不為過。例如宛如柳樹(唐柳)般筆挺矗立的鳶尾花葉;又如「帆船與鳶尾花」,大框架雖屬於鍋島樣式,卻摒棄了巧妙的誇張變形,樹立起嶄新的風格;「牡丹與小鳥」看似「被放飛至異國空間的鳥兒」,卻絕非生搬硬套的外來樣式;而「竹」雖然展現出接近明治前期起立工商公司圖案的風貌,卻在圖樣本身的張力與留白空間的掌握上賦予了堅實的構築性。這些作品似乎都是對傳統圖案進行徹底深入研究後所孕育出的結晶。
然而,當構圖與設計被構築得如此無懈可擊時,從另一個角度來看,我不禁會想:這是否也反倒讓大正以後的後繼者感到有些無所適從、難以超越了呢?
(金子賢治・東京國立近代美術館主任研究官)



日語原文如下:
圖像中的日文逐字謄稿如下:
香蘭社・深川製磁の輸出磁器図案
明治以後、工業的陶磁を築いてきた二社の輸出磁器デザインにみるもう一つの有田陶磁史。
伊万里や柿右衛門、鍋島で語られる四百年の陶磁史の他に、有田にはもう一つの顔がある。それは香蘭社や深川製磁が営々と築いてきた近代の工業的陶磁史だ。それを視覚的により直截に訴えかけてくるのが、二つの会社に伝えられる明治—昭和初期の輸出磁器図案である。これらは「有田の文様」(一九七七年 美乃美)で一部が公刊されたが、昨年、「図案の変貌 1868—1945」展(東京国立近代美術館)でも回顧されている。
JR佐世保線有田駅で、佐賀県立九州陶磁文化館のある小高い丘を正面にみて左へしばらくいくと香蘭社本社、その少し先に深川製磁本社がある。
香蘭社
香蘭社社屋は明治期に建設されたものがほぼそのままにのこっており、入口を入ったすぐ右が事務所棟、左には経営者・深川家がある。なかには江戸末期にオランダと取引が行なわれたという異人館もある。僕が訪ねたのは何年か前の十月初め頃だったが、爽快な秋晴れの日の、長崎とはまた違うのんびりとした江戸末~明治の探訪であった。
係の若い方に案内していただいたのは事務所棟の二階にあるショールーム、そこから少し螺旋状にまがっているいかにも明治らしい階段をのぼった三階にある明治以来の製品の展示室であった。展示室には図案の一部である明治、大正、昭和天皇の即位大礼用大花瓶などが展示されている。その奥には明治の初め頃からの貴賓室があり、一九一五年サンフランシスコ万博に出品して最高賞をえた「染錦御所車大花瓶」などが飾られており、中央にさがる小型シャンデリアの取付基部には明治期の皿形装飾陶板がはめこまれている。
さて図案類は現在もデザイン資料として生産に用いられているため、工場のなかにあるというので、近くの第一工場内で拝見した。使用に耐えるようにビニールファイルに入れられて、全部で三十冊近くもある。まず目をひいたのは「佐賀県博覧会事務局」の朱文方印のあるもので、香蘭社は明治六年ウィーン万博以来いくつかの内外博覧会に参加しているが、これらがどれに当たるのか、今後の研究が期待される。また昭和十年前後には当時商工省陶磁器試験所(京都・瀬戸)の意匠部長であった水町和三郎(社長深川栄左衛門の娘と結婚)が図案を担当している。ピンとはりつめたようなあざみ文を表わしたコーヒー・セット図案などに、当時の商工省様式ともいうべきもののがうかがえる。次ページに図示したのは、明治期の図案がアール・ヌーボー様式を取り入れて変容していく頃のものと考えられるものだ。ちょうど、明治三十年代後半に京都でアール・ヌーボー風図案制作・普及活動を推進した洋画家・浅井忠周辺の図案に通ずるものがある。そこにのこっていた明治工芸的文様の気分をやわ払拭したように思え、大正に入ってからの制作であろうか。
香蘭社は、深川商店を経営していた八代深川栄左衛門が磁器碍子の生産に自信を得て、明治八年、深海墨之助、辻勝蔵らとともに輸出磁器生産をめざしてつくった合本組織香蘭社をその発祥とする。明治十二年には深川栄左衛門のみによる合名会社香蘭社へと受けつがれ現在に至っている(昭和四十五年株式会社となる)。明治六年ウィーン博、同十年からの内国勧業博覧会、同一一年パリ万博などの経験から機械化の要を痛切に感じ、栄左衛門はパリ万博に参加したのを機に、フランス製製陶機械を購入、機械化の緒についた。しかし、碍子、食器類、高級美術陶器全般に機械化が浸透し順調に生産の実をあげるようになるのはやはり明治三、四十年代のことである。大正年間は、とくに第一次大戦以降、ヨーロッパの疲弊の結果、アメリカ向け輸出を大幅にのばすことができた。当然、形状、絵付け、図案もそれに向けてくふうをこらしたが、アメリカで予想外の好評を得たという。昭和に入ると、日本の海外侵略と連動して、昭和二年、産業合理化、工芸品の海外市場獲得をめざして商工省工芸指導所が開設されたが、同省陶磁試験所もその線にそった研究、制作活動を展開していった。昭和五、六年頃からの欧米市場獲得のための日本趣味西洋食器制作がそれで、日本趣味西洋食器図案に関する座談会、商工省輸出工芸展への取り組みなどをを行なった。同所第二部(意匠図案研究)の部長・水町和三郎はその指導者的立場にいた。香蘭社もその指導を受け、輸出用食器の図案開発に積極的に取り組み、昭和八年商工省全国趣味品展示会で進歩賞を受賞したりなどしている。
前記の図案類にはこうした歴史の如実な反映をみることができる。ちなみに図案制作に従事した作家として、川浪竹山、荒木探令、川崎千成、納富介童(明治末~大正初期)、水町和三郎、池田善左衛門、川浪計次、柿沢市郎、広瀬玄甫、辻直男、江原卓郎などの名が伝えられているが、これらも今後の詳しい研究がまたれる。
深川製磁
深川製磁は、九代深川栄左衛門(香蘭社二代社長)の弟・忠次が明治二十七年創業した。やはり輸出磁器を専ら生産し、同四十三年に宮内省御用達となり、同四十四第二頁圖像(第97頁)的日文逐字謄稿如下:
年には鍋島侯爵らの賛助を得て事業規模を拡大し現在に至っている。
社屋の正面を入ると広いショールームがあるが、これは後世の建物で、創立当初の古い木造社屋につなげてつくられたものである。その創立当初の社屋の二階が展示室になっており、明治以来の製品が順を追って展示されている。ひときわ目立つのは、「染錦金襴手丸紋鳳凰文大花瓶」で、明治四十五年のセント・ルイス万博で大賞を得たものだ。展示品のなかには楮槙状の葉に白・赤・黄のアヤメの花を散らした図案と全く同じ文様の皿などがある。この展示室のとなりが深川磁器芸術室で、新しい製品のデザインの研究、試作品の制作などをしている。図案を拝見にうかがった日、室長の深川巌さん以下、若いデザイナーたちが仕事中で、その中の女性デザイナーが近々東京で開く作品展の案内状をいただいたりなどした。
「これ、試作してみたんですよ」
と、深川巌さんにみせられたのは、図案どおりに制作された「明治」製の高台つき鉢であった。純白の磁面も染付の青もよく焼きあがり、ほどよい光沢をみせている。制作者側には失礼だが、ここでのんびりした明治に遭遇した思いだった。出島もなくなり、観光資本の進出にズタズタにされ、窮屈でいたずらにバタくささがめだつ長崎とちがって、ここには歴史がそのままひっそりといきづいている。
さて、深川製磁の図案は帖紙に納められ、大切に保存されている。明治後期(三、四十年代)のものがほとんどだ。図にみるように、うつわの画面に様式化された文様がきっちりと納められている。なにか規範があるわけではないが、その布置の方法は構築的で力強い。どの図案にも共通する一種のトーンがあり、一本貫かれた意志といったものを感ずる。江戸の鍋島の変容からアール・ヌーボー、商工省様式などと、時々の情勢に合わせて変化していった香蘭社とは図案の基本的考え方が違うようだ。もちろん、深川製磁の図案の方が制作時期が比較的限定されているからでもあるが、それでもこの時期に特有なアール・ヌーボー的なふだんだとか、鍋島や古伊万里のひねりといった要素はほとんどない。これは何故か、はっきりしたことは今後の研究の課題だが、ひとついえるのは、深川製磁が創立したのが、機械工業がそろそろ実効を伴いだした頃だということだ。
明治工芸のあり方、すなわち行政の主導によって、日本画家(図案)—工芸職人(制作)というシステムによる制作ということに反省がみえてくるのは明治二十年代に入る頃からである。これには機械工業の進展による日本画様式の図案の見直しということが大きな要素として含まれていた。
たとえば量産に耐えうるもの、欧米社会にも受け入れられるものというようなことだ。それはつまるところ、絵画的なものではなく装飾文様が文様としての性格をはっきりと打ち出すということであろう。同時期の高島屋や野口彦左衛門商店(京都)の染織図案をみても明治の四条派、南画風図案からはよほど進展し一種模様ともいえる特徴をみせている。たとえば高島屋の「竹に桜模様友禅図案」は朱色の竹林に青色の桜の枝がトランプ・ルイユ風にからみつき、野口商店の「大竹に菊友禅図案」は何本かの竹を交叉させ、その竹の内部に菊花などを描き、その佐井の内部がまた細子の織文や疋田絞りのような文様でびっしりうめられているといった具合である。あたかも絵画文から装飾文へと移行する生みの苦しみのような重苦しい、あるいは苛立たしい気分をたたえている。
こうした新しい図案の登場時期と深川製磁の創立時期が見事に重なっているのだ。だがそれにしても、深川製磁の図案世界はその状況をさらにこえて、一つの完成の域に達しているといっても過言ではないだろう。あたかも唐楊のように鋭く直立したアヤメの葉、「帆船にアヤメ」のように大わくは鍋島様式にいながら、そのひねりではなく新しい様式を打ち出しているもの。「牡丹に小禽」のように、いかにも「異国の空間に放たれた鳥」にみえて、決して外来様式そのままでないもの。「竹」のように明治前期の起立工商会社図案に近いものをみせながら、図様自体の力強さと、空間の取り方に構築性をもたせるもの。これらは従来の図案の徹底した研究の結果、生み出されてきたもののようである。しかしここまでがっちりと構成されてしまうと、大正以降の人たちはこまったのではないかと一方では思えてくるのである。
(東京国立近代美術館主任研究官)