明治維新與有田燒:從伊萬里出口與洋食器開發的幕後故事

本篇文章節錄自蒲地孝典的著作『幻の明治伊萬里』,書裡詳細地歸納與剖析在日本明治初期時,出口貿易與廢藩置縣對於肥前有田當地的陶瓷產業的影響與變革。同時在此書中,特別著重於香蘭社的創立興起與精磁會社的式微沒落。

明治開化期有田藩士請願增加貿易許可證

慶應四年/明治元年(1868年)三月,明治開化期有田的領袖第八代深川榮左衛門與窯主平林伊平等人,抱著必死的決心向藩廳請願,順利將原由田代商會獨占的海外貿易特許證(鑑札)增加至十張。這些人皆來自有田內山地區,分別是泉山的深海平左衛門(喜三)、百田多兵衛、鶴田次兵衛;上幸平的石川太左衛門;大樽的平林伊平;本寺平的第八代深川榮左衛門、武田彌吉;赤繪町的富村森三郎;以及岩谷川內的山口伊右衛門等九人。

富村森三郎從事釉上彩業(赤繪屋),其筆法與顏料發色皆屬上乘的佳作,至今仍偶可得見,器物上落有「肥前有田、富村製」的款識。深川與平林則在與田代商會競爭的同時,各自於長崎與橫濱設立分店,對海外輸出寄予厚望。深川的作品銘款為「深川造」或「日肥山深川造」,平林則落款「肥磔山平林造」。「肥磔山」讀作「Hichōzan」,意指肥前瓷器的產地。

為了擴大出口,各窯元紛紛著手研發西式餐具。平林曾依長崎荷蘭醫生的訂單製作成套西式餐具等,來自橫濱外國人居留地的訂單也逐漸增加。有田燒就此迎來了我國研發西式餐具的黎明期。

西式平盤的製作難題與泉山陶土的侷限

帶有折邊的西式餐具平盤,尺寸愈大愈容易變形翹曲;作為實用器皿又必須做得輕薄,因此製作難度極高。橢圓盤也是不可或缺的器型,要滿足這類訂單讓窯戶傷透了腦筋。僅使用泉山的陶土缺乏可塑性,不僅底部難以保持水平、容易塌陷變形,且因富含硫化鐵,燒製後鐵質常如黑痣般浮現,胎體底色原本也偏向灰青色。若要與歐洲陶瓷產地那種純白且底部平整的西式餐具競爭,絕非易事。

或許在當時,他們只能藉由營造異國情調、施以繁複緻密的彩繪設計來予以抗衡。使用泉山原料所製成的胎體,作為追求裝飾美感的畫布而言別有一番風味,但若作為日常用品、特別是在海外市場作為西式餐具銷售,確實並不適合。然而在日後,這項限制反而促成了一種正面風氣:即便堅持使用泉山原料,也要創作出設計卓越、足以掩蓋其缺點的製品。

「伊萬里燒」與「有田燒」名稱的由來與區別

常有人詢問「伊萬里燒」與「有田燒」有何不同;由於這個時期正好推展了流通體制的改革,在此順帶說明背景以解答此疑惑。

江戶時代初期,肥前地區、特別是有田周邊,曾有過唐津風格的陶器與瓷器同時燒製的時期。肥前瓷器的產地除了有田燒之外,尚有松浦藩的平戶・三川內燒,以及大村藩的波佐見燒。若從消費端的角度來看,往往將肥前所產的陶器與瓷器一概混同稱為「伊萬里燒」。就產量與流通量而言,雖然絕大多數是有田燒,但換句話說,從伊萬里港裝船運出的陶瓷,除了有田產的瓷器之外,也包含了陶器及其他藩所產的器物。不過,有田燒確實全數是從伊萬里裝船運出。

前往伊萬里港採購並銷往全國各地的商人,也將有田燒統稱為伊萬里燒;因此一般常說「有田燒是因為從伊萬里港出貨才被命名為伊萬里燒」,這項說法倒也不算錯。伊萬里港周邊並未形成瓷器產地。雖然鄰近地區有燒製藩主御用的鍋島燒,但鍋島燒並不流入民間市場,在此不列入討論。

明治三年(1870年),有田郡令百武十兼貞(明治洋畫界先驅百武兼行之父)奉藩命行事,為了維持有田燒的品質、穩定價格,以及保護並整頓窯元,新設立了「伊萬里商社」。該商社排除了窯元的私自直銷與民間商社的介入,並於長崎、江戶(東京)、橫濱設立分店,展開對市場的直銷。後文將提及的製陶技術人員川原忠次郎,當時年僅二十二歲便受任為橫濱商社主任。

在大阪方面,也破除了以往由紀州藩獨占銷售的局面,改以「伊萬里燒」的品牌獨力推展,確立了能直接掌握市場動向的體制。

出窯的製品由有力窯元與商社組成的判定委員會進行分級評定,這對穩定價格與提升品質大有成效。委員會的主要成員中,評審員有川原善八、深川榮左衛門,經理(支配人)為平林伊平,總負責人(元締め役)則由手塚龜之助等人出任。伊萬里商社組織嚴密,確實取得了相當的成效。然而,隨著明治四年(1871年)的廢藩置縣,商社宣告解散,粗製濫造與削價拋售的亂象又再度抬頭。

「有田燒」之名要真正作為獨立品牌確立下來,必須等到明治三十年(1897年)佐世保線鐵路開通、全面轉為由有田車站進行鐵路運輸之後。

德國化學家瓦格納的技術革新貢獻

談到這個時期為日本陶瓷業界技術改革開創先河的人物,絕不能忽視受聘外籍化學家戈特弗里德・瓦格納(Gottfried Wagener,1831–1892)的存在。 事情要回溯至瓦格納來到有田的前一年,明治二年(1869年)歲末,自英國祕密留學歸國後寄宿於久富與平處的石丸虎五郎(後改名安世,對我國電信技術的普及貢獻卓著),與兩年後作為岩倉使節團一員遠赴歐美的本藩士久米邦武(1839–1931),兩人出面牽線,於有田的久富宅邸迎請英國礦業工程師莫里斯(Morris),並與郡令百武十、深川榮左衛門、深海墨之助與竹治兄弟,以及辻勝藏等人舉行懇談。此行是為了讓莫里斯針對伊萬里郊外山代地區的採煤、以及有田泉山的採石方法提供建言。席間談及陶瓷製作技術時,石丸與久米雖然對傳統工藝仰賴經驗與直覺感到佩服,卻也深感有田的陶瓷從業者對科學知識的極度匱乏,進而力陳引進科學知識的必要性。

在石丸虎五郎的穿針引線下,有田成功聘請了當時身在長崎的瓦格納(Gottfried Wagener)。隔年,明治三年(1870年),瓦格納與鍋島藩簽訂了契約。雖然他停留的時間僅有短短半年,且部分技術未能立刻實用化,但他為引進燃煤窯、以廉價氧化鈷取代自中國傳入的青花鈷料(吳須),以及利用石膏模具進行量產等方面開闢了嶄新的前景。此外,瓦格納還傳授了在本窯(指在素燒胎體施釉後,以最高溫燒成)中讓紅、黃、綠色發色的「釉下彩」技術(當時釉下彩顏料僅有青花吳須一種,即青色),以及黃金分解游離的技術。前述的年木庵喜三當時雖已大致成功試製出釉下彩,但瓦格納為此技法提供了科學理論依據,並進一步擴增了數種色彩表現。這不僅為陶瓷業界,也為我國引進了最前沿的理化學知識。

瓦格納在化學工業界的現代化發展中,同樣做出了卓越的貢獻。

傳統窯燒技藝的新高度

《肥前陶瓷史考》中記錄了以往全憑直覺與經驗燒窯的情形,在此引述介紹: 「自燜火慢燒(練らし焚き)、大火急攻(攻め焚き)、到揚火(提溫)、看火照(色見)為止,無一不需要高度熟練的技藝。無論是多麼精美絕倫的美術作品,作為製作工序最後關卡的這道燒窯程序,其火候拿捏難度可說是千載一時。因此,在此行業的各類工匠中,負責燒窯的人向來最為自視甚高;在點火燒窯期間,當窯元當主送來伙食便當時,只要菜色稍有不合胃口,他們便會毫不留情地隨手砸棄。」

俗話說「一燒窯、二黏土、三拉胚」,這段軼事正說明了相較於製土與成形工藝,作為最後關鍵環節的「燒窯」是多麼受到重視。逐步提升窯內溫度的過程,正是燒窯專門工匠展現身手的時刻。如今雖有瓦斯窯的全自動控制,只要不停電就毫無問題;但在當時,燒壞器物卻是關乎生計的大事,成品良率(歩留まり)是眾人最為關切的核心。在陶瓷燒製中,即便是現代也仍有約 10% 前後的燒損率,而磁器比起陶器承擔的風險又更高。

隨行而來的久米邦武,見到年木庵・深海喜三(深海兄弟之父,即後來的平左衛門)以匣缽內部形成接近真空狀態燒製的「極真燒」技法,燒出高達六尺(約 180 公分)的大花瓶時雖感震驚,卻也發表感言道:「有田的陶工雖具備如此大膽且精巧的技術,但這純粹只是經驗與熟練累積的成果;其理化學知識近乎零分,甚至連瓷質內部會產生氣泡的空氣原理都渾然不知。」

廢藩置縣後的陶業自由化、品質危機與最終突破

明治四年(1871年)實施廢藩置縣後,任何人都能自由經營窯元或赤繪屋(釉上彩業)。然而,隨之而來的粗製濫造與削價拋售嚴重威脅到有田燒的信譽,因而訂立了名為「陶業盟約」的規章。此盟約明令禁止窯元採用不經素燒便直接施釉的「生掛(生坯施釉)」技法以確保品質;在實用品方面,則限制各地區窯元與窯場可製作的器形品種,以遏制惡性競爭。若某處窯元製作蓋飯碗,其他地區的窯元便不得仿製同款碗形。違規仿製的窯元將被處以罰金,自主管制相當嚴苛。曾有仿製窯元辯稱「這件器形較淺,所以是盤子」,卻被嚴厲駁斥為「這根本是指鹿為馬」,最終只得無奈繳交罰款,這段令人啼笑皆非的軼事足見當時管理的嚴格。

另一方面,赤繪加工業者的技術水平也出現了顯著落差。瓷器製作向來採取分工體制,原本由窯元統籌調度各環節經驗老到的工匠,只要其中任何一道工序有所疏忽,成品品質便會大打折扣。由於最後的裝飾工序——釉上彩繪屬於外包製作,若缺少完善的事前圖稿設計,製品品質便極易淪於粗製。半路出家的窯元與赤繪屋如雨後春筍般湧現,正是引發粗製濫造的根源。江戶時代的釉上彩繪業者原本遵循單傳制度,全鎮僅有十六家,此時卻暴增至八十家,導致技藝水平良莠不齊。順帶一提,釉上彩繪中不留留白、將整面塗滿的技法,一方面因黑、棕、群青等色彩搭配深得歐美人士喜愛而一度流行,另一方面也因恰好能遮掩泉山陶土的雜質缺點,在當時收到了極佳的效果。

對出口業者而言,西式餐盤的製造長年以來都是一大難題。為了讓盤底平整,業者曾在器底圈足內側放置支撐物(支釘疊燒,ハリ積み),或是製作成雙重圈足,以此來防止盤面中心凹陷。然而,這樣做不僅會留下支釘痕跡(目跡),也使器物變得沉重,外觀顯得不夠俐落精巧。這種不斷嘗試與摸索的過程一直持續著,直到大正初期日本陶器(即後來的則武,Noritake)燒製出大致符合歐洲標準的平整十吋盤為止。儘管有田在技術研發上歷盡艱辛、苦心孤詣,開拓了日本西式餐具的萌芽期,最終成果卻未能由有田收穫。然而諷刺的是,有田出身的江副孫右衛門後來出任日本陶器的工廠廠長,在經營者大倉孫兵衛與大倉和親父子的強力支持下克服了這道難關,讓西式餐具透過正式的出口貿易實現了飛躍性的發展。至於雙方成敗的原因,將在後續章節再作詳述。

重點整理,依年代順序

  • 慶應四年/明治元年(1868)——有田燒領袖深川榮左衛門真忠等九人聯名向藩廳請願,成功將海外貿易鑑札(許可證)增加至十張,開啟明治維新期有田陶業的近代化改革。
  • 明治二年(1869)——石丸虎五郎(後改名安世)與久米邦武自英國密航留學歸國,兩人在有田的久富宅邸宴請英國礦業工程師莫里斯(Morris),商議採礦與陶瓷技術改良事宜,為引進科學知識奠基。
  • 明治三年(1870)——有田郡令百武兼貞奉藩命,設立「伊萬里商社」,統一品牌推廣有田燒,並在長崎、江戶(東京)、橫濱設立分店,展開直銷;同年德國化學家戈特弗里德·瓦格納(Gottfried Wagener)與鍋島藩簽約,赴任指導技術革新。
  • 明治四年(1871)——廢藩置縣實施,伊萬里商社宣告解散,粗製濫造與削價競爭的亂象再度抬頭,有田燒品質面臨危機,因此訂立「陶業盟約」。
  • 明治三十年(1897)——佐世保線鐵路開通,有田站啟用並全面改以鐵路運輸,「有田燒」之名才作為獨立品牌正式確立,與「伊萬里燒」的稱呼正式區隔。

【日文原文対応】

慶けい応おう四よん年ねん(1868)三さん月がつ、明めい治じ開かい化か期きの有あり田たのリりーーダだーーだった八はち代だい深ふか川がわ栄えい左さ衛え門もんや窯かま焼やき平ひら林ばやし伊い平へいらは、決けつ死しの覚かく悟ごで藩はん庁ちょうへ申もうし入いれ、田た代しろ商しょう会かい独どく占せんの海かい外がい貿ぼう易えきの鑑かん札さつを首しゅ尾びよく十じゅう枚まいに増まやすことに成せい功こうした。いずれも有あり田た内ない山やま地ち区くである泉いずみ山やまの深ふか海うみ平ひら左さ衛え門もん(喜き三ぞう)、百ひゃく田た多た兵へい衛え、鶴つる田た次じ兵へい衛え、上かみ幸こう平ひらの石いし川かわ太た左さ衛え門もん、大おお木きの平ひら林ばやし伊い平へい、本ほん寺じ平ひらの八はち代だい深ふか川がわ栄えい左さ衛え門もん、武たけ田だ弥や吉きち、赤あか絵え町まちの富とみ村むら森もり三さ郎ろう、岩いわ谷や川がわ内うちの山やま口ぐち伊い右う衛え門もんの九きゅう名めいであった。


富村とみむらは上絵付業うわえつけぎょう(赤絵屋あかえや)で、さすがに運筆うんぴつも絵えの具ぐの発色はっしょくも優すぐれた製品せいひんを今日きょう散見さんけんすることが出来できる。「肥前有田ひぜんありた、富村製とみむらせい」の銘款めいかんが入はいっている。深川ふかわ、平林ひらばやしは、田代商会たしろしょうかいと競争きょうそうしながら、それぞれ長崎ながさきや横浜よこはまに支店してんを設もうけ、輸出ゆしゅつに大おおきな夢ゆめをふくらませていった。深川ふかわは深川造ふかわぞう、あるいは日肥山深川造にっぴさんふかわぞう、平林ひらばやしは肥蝶山平林造ひちょうざんひらばやしぞうの銘めいがある。肥蝶山ひちょうざんは、“ひちょうざん”と読よみ、肥前磁器ひぜんじきの産地さんちを意味いみするものである。


輸出ゆしゅつを拡大かくだいするために、各窯元かくかまもとは洋食器ようしょっきの開発かいはつを始はじめた。平林ひらばやしが長崎ながさきの蘭医らんいの注文ちゅうもんにより、揃そろいの洋食器ようしょっきを製作せいさくしたりして、横浜よこはまの外人居留地がいじんきょりゅうちからの注文ちゅうもんも徐々じょじょに増ふえてきた。有田焼ありたやきは、わが国くににおける洋食器開発ようしょっきかいはつの黎明期れいめいきを迎むかえたのである

後のちでも詳くわしく触ふれるが、リムりむ付つきのフラットふらっとな洋食ようしょく器きはサイズさいずが大おおきくなればなるほど歪ゆがみやすく、実用じつよう品ひんとして薄うすく、軽かるく製作せいさくしなければならないので困難こんなんを極きわめた。楕円だえんの皿さらも必需ひつじゅ品ひんで、注文ちゅうもんに応こたじるには手てを焼やいた。泉山いずみやまだけの陶土とうどでは可塑かそ性せいがなく、底そこが水平すいへいにならないで傾たおちる習性しゅうせいや、硫化りゅうか鉄てつを多おおく含ふくんでいるので鉄分てつぶんが黒子ほくろのように出でてしまい、地肌じはだも元来がんらいが灰青はいあお色いろである。欧州おうしゅうの陶業とうぎょう地ちのような純白じゅんぱくで生き地じの底面ていめんがフラットふらっとな洋食ようしょく器きと対抗たいこうするには容易よういではなかった。

とうぶんは異国いこくじょうちょを醸かもし出だす多彩たさいで過密かみつな意匠いしょうで対抗たいこうするよりほかなかったのかもしれない。泉山いずみやまの原料げんりょうを用もちいた生地きじは、装飾美そうしょくびを追求ついきゅうするキャンバスとしては味あじわい深ぶかいものだったが、日用品にちようひん、とりわけ海外かいがいの市場しじょうで洋食器ようしょっきとして販売はんばいを展開てんかいするには不向ふむきであった。以後いご、泉山いずみやまの原料げんりょうにこだわりながらも、それを補おぎなって余あまりある、意匠いしょうに優すぐれた製品せいひんを生うみ出だしていこうという機運きうんに効果的こうかてきに働はたらいたのではないだろうか。


伊い万まん里り焼やきと有あり田た焼やきの違ちがいを尋たずねられることが多おおいが、この時じ期きは流りゅう通つうの改かい革かくが進すすめられたので、その疑ぎ問もんを解とく背はい景けい説せつ明めいも兼かねて述のべたい。


江え戸ど初しょ期きには、肥ひ前ぜん地ち区く、とりわけ有あり田た周しゅう辺へんでも唐とう津つ系けいの陶とう器きも磁じ器きも併あわせて焼やかれていた時じ期きがあった。肥ひ前ぜん磁じ器きの産さん地ちには、有あり田た焼やきのみならず、松まつ浦うら藩はんの平ひら戸ど・三み川かわ内うち焼やきがあり、大おお村むら藩はんには波は佐さ見み焼やきがある。消しょう費ひ地ちから見みれば、肥ひ前ぜん産さんの陶とう器きも磁じ器きも、すべて伊い万まん里り焼やきとする混こん同どうがあった。生せい産さん高だかや流りゅう通つう量りょうは圧あっ倒とう的てきに有あり田た焼やきが主しゅであるが、つまり伊い万まん里り港こうから積つみ出だされた焼やき物ものは、有あり田た産さんの磁じ器き以い外がいにも陶とう器きや他た藩はんの焼やき物ものまで含ふくまれていたのである。ただし、有あり田た焼やきは紛まぎれもなく伊い万まん里りから積つみ出だされていたのである

であり、伊い万まん里り港こうに出しゅっ向こうき全ぜん国こく各かく地ちに販はん売ばいしていた商しょう人にんは有あり田た焼やきを伊い万まん里り焼やきとして特とく定ていしていたので、一いっ般ぱん論ろんとして、有あり田た焼やきは伊い万まん里りの港みなとから出しゅっ荷かされていたので伊い万まん里り焼やきという名な前まえが付ついたという説せつ明めいもあながち外はずれてはいないのである。

伊い万まん里り港こう周しゅう辺へんに産さん地ちは形けい成せいされていない。近きん郊こうで藩はん御ご用ようの鍋なべ島しま焼やきが焼やかれていたが、鍋なべ島しまは一いっ般ぱん市し場じょうに出で回まわることはなく、論ろん外がいである。 有あり田た焼やきの名な前まえがブぶラらンんドどとして確かく立りつするのは明めい治じ三さん十じゅう年ねん(一せん八はっ九きゅう七なな)、佐さ世せ保ぼ線せんが開かい通つうし、有あり田た駅えきからの鉄てつ道どう輸ゆ送そうに切きり替かわるまで待またなければならなかった。

明めい治じ三さん年ねん(一せん八はっ七なな〇れい)、藩はん命めいにより有あり田た郡ぐん令れい・百ひゃく武たけ十じゅう兼けん愷がい(明めい治じの洋よう画が壇だんの先せん駆く者しゃ・百ひゃく武たけ兼けん行ゆきの父ちち)は、有あり田た焼やきの品ひん質しつ維い持じ、価か格かくの安あん定ていや窯かま元もとの保ほ護ごや統とう制せいを目もく的てきとして、新あらたに「伊い万まん里り商しょう社しゃ」を設もうけ、窯かま元もとの直ちょく売ばいや商しょう社しゃの介かい入にゅうを排はい除じょし、長なが崎さき、江え戸ど、横よこ浜はまには支し店てんを開かい設せつし、市し場じょうに向むけ直ちょく売ばいを開かい始しした。後こう述じゅつする製せい陶とう技ぎ術じゅつ者しゃでもある川かわ原はら忠ちゅう次じ郎ろう(一せん八はっ四よん九きゅう〜八はち九きゅう)は、二に十じゅう二に歳さいの若わかさで横よこ浜はま商しょう社しゃ主しゅ任にんに任にんじられた。

大おお阪さかでも、それまでの紀き州しゅう藩はんの独どく占せん販はん売ばいを改あらため、伊い万まん里り焼やきとしてのブぶラらンんドどを独どく自じに広ひろめ、市し場じょうの動どう向こうも直ちょく接せつ入にゅう手しゅできる体たい制せいを固かためていった。

焼やき上あがった製せい品ひんは、有ゆう力りょく窯かま元もとと商しょう社しゃで構こう成せいする判はん定てい委いい員んが格かく付づけ評ひょう価かし、安あん定ていした価か格かくと品ひん質しつの向こう上じょうに効こう果かがあった。構こう成せい員いんの主おもなる人じん物ぶつは、評ひょう価か員いんに川かわ原はら善ぜん八はち、深ふか川がわ栄えい左ざ衛え門もん、支し配はい人にんに平ひら林ばやし伊い平へい、元もと締じめ役やくに手て塚づか亀かめ之の助すけらが名なを連つらねている。伊い万まん里り商しょう社しゃはよく統とう制せいされた機き構こうで、一いっ定ていの成せい果かが上あがった。しかし、明めい治じ四よ年ねん(一せん八はっ七なな一いち)の廃はい藩はん置ち県けんで解かい散さんし、粗そ製せい濫らん造ぞうと乱らん売ばいがまた頭あたまをもたげ始はじめた。

この時期、わが国窯業界の技術的な改革に先鞭をつけたお雇い外国人の化学者ゴットフリードごっとふりーど・ワグネルわぐねる(一八三一〜九二)の存在を挙げねばならない。 ワグネルわぐねるが有田ありたに来る前年に話は遡る。

明治めいじ二年(一八六九)の暮れ、イギリス密航みっこうから帰国きこく後、久富与平ひさとみよへいのところに寄宿していた石丸虎五郎いしまるとらごろう(後、安世やすよ。わが国の電信技術でんしんぎじゅつの普及ふきゅうに功績こうせきがあった)と、二年後に岩倉具視いわくらともみ使節団しせつだんの一員として米欧べいおうへ旅立つたびだつ本藩ほんぱんの久米邦武くめくにたけ(一八三九〜一九三一)の斡旋あっせんで、有田ありたの久富邸ひさとみていに英国人えいこくじん鉱山技師こうざんぎしモリスもりすを迎え、郡令ぐんれい・百武十ひゃくたけじゅうのほか、深川栄左衛門ふかがわえいざえもん、深海墨之助ふかみすみのすけと竹治たけじ兄弟きょうだい、轟勝蔵とどろきかつぞうらと懇談こんだんした。モリスもりすが、伊万里いまり郊外こうがいの山代やましろの採炭さいたんのことや、有田泉山ありたいずみやまの採石方法さいせきほうほうを助言じょげんするためであった。席上せきじょう、陶磁器製作とうじきせいさくの技術ぎじゅつに話はなしが及んで、伝統技術でんとうぎじゅつが経験けいけんと勘かんに依よるものであることに感心かんしんしつつも、石丸いしまるや久米くめは有田ありたの陶業家とうぎょうかが科学かがくについていかに無知むちであるかを痛感つうかんし、科学知識かがくちしきの導入どうにゅうの必要性ひつようせいを論ろんじた。

それまでの勘かんと経けい験けんに頼たよった窯かま焚たきのことが、『肥ひ前ぜん陶とう磁じ史し考こう』に記しるされているので、紹介しょうかいする。

「練ねらし焚だきより、攻せめ焚だき、揚あげ火び、揚あげ見み(色いろ見み)に至いたるまでのが甚はなはだ熟じゅく練れんを要ようするのである、たとひ、いかなる美び術じゅつ的てき作さく品ひんとても製せい作さく工こう程ていの終しゅう点てんたるこの窯かま焚たきが千せん番ばんに一いち番ばんの兼かね合あいである。故ゆえに斯か業ぎょうの職しょく人にん中ちゅうにてもこの窯かま焚たきなる者ものが、一いち番ばん誇ほこっていた者もので、それは火ひ入いれ中ちゅう、窯かま焼やき(窯かま元もと)から貰もらい膳ぜん(料りょう理り)を持もち参さんせし時とき、少すこしく不まず味みいお膳ぜんでも添そえであれば、彼かれ等らは容よう赦しゃなく打うち捨すてたものである」

「一いちに窯かま焚たき、二にに土つち、三さんにろくろ」といわれ、製せい土どと細さい工こうに優ゆう先せんして、最さい後ごの詰つめである窯かま焚たきがいかに重じゅう要よう視しされたかが分わかる挿そう話わである。窯かまの温おん度どを上あげていく過か程ていが窯かま焚たきを専せん門もんにする職しょく人にんの腕うでの見みせ所どころであった。今いまでこそ、ガス窯がまによる全ぜん自じ動どう制せい御ぎょで停てい電でんさえしなければ何なんの問もん題だいもないが、当とう時じは窯かまの焼やき損そんじは死し活かつ問もん題だいであり、歩あゆ留どまりが最さい大だいの関かん心しん事じであった。陶とう磁じ器き焼しょう成せいにおいては、今いまでも十じゅっパーセント前ぜん後ごは焼やき損そんじが出でるのであり、さらに陶とう器きに比ひべて磁じ器きはリスクが大おおきい。

同行どうこうして来きた久米邦武くめくにたけは、年木庵ねんぼくあん・深海喜三ふかみきぞう(深海兄弟ふかみきょうだいの父ちちであり、後のちの平左衛門へいざえもん)によってサヤさや(坩堝るつぼ)の中なかが真空状態しんくうじょうたいになって焼やき上あげられる極真焼ごくしんやきで焼やき上あげた六尺ろくしゃく(約百八十センチやくひゃくはちじゅっせんち)の大花瓶だいかびんに吃驚びっくりするものの、「有田ありたの陶工とうこうが斯かく大胆だいたんで精巧せいこうな技術ぎじゅつを具有ぐゆうするも、是これは只ただ経験熟練けいけんじゅくれんの結果けっかで、理化学りかがくの知識ちしきは零点れいてんで磁質じしつに泡あわをなす空気くうきさえ知しらなかつた」と感想かんそうを述のべている。う

石丸虎五郎いしまるとらごろうの斡旋あっせんで、長崎ながさきに来ていたワグネルの招聘しょうへいが実現じつげんし、翌年よくねん的明治めいじ三年さんねん(一八七〇)、ワグネルわぐねるは鍋島藩なべしまはんと契約けいやくを結むすんだ。滞在たいざいは半年間はんねんかんという短期間たんきかんではあったが、すぐには実用化じつようかしなかったものの、石炭窯せきたんろの導入どうにゅうや、中国渡来ちゅうごくとらいの染付そめつけの顔料がんりょうである呉須ごすに代かわえて安価あんかな酸化さんかコバルトの仕様しようや石膏型せっこうがたによる量産化りょうさんかの展望てんぼうを開ひらいた。またワグネルは、赤あか、黄き、緑みどりを本窯ほんろ(素焼すやきき生地きじに釉うわぐすりを掛かけ最高温度さいこうおんどで窯ろを焚たくこと)で発色はっしょくさせる釉下彩ゆうかさい(当時とうじ、下絵付したえつけの顔料がんりょうは呉須ご すで、青色あおいろだけだった)や、金きんの分解遊離ぶんかいゆうりの技術ぎじゅつを伝授でんじゅした。先さきの年木庵喜三としぎあんきぞうは既すでに釉下彩ゆうかさいをほぼ成功せいこうさせていたが、科学的かがくてきにこの技法ぎほうを裏付うらづけし、更さらに数種すうしゅの色相しきそうが加くわわった。窯業界ようぎょうかいのみならず、わが国こくに最新さいしんの理化学りかがくをもたら

ししたワわグネルは、化学工業界かがくこうぎょうかいの近代化きんだいかにおいてもその貢献こうけんは顕著けんちょであった。 明治めいじ四年よんねん、廃藩置県はいはんちけんが施行しこうされ、誰だれもが自由じゆうに窯元かまもとにもなれ、赤絵屋あかえや(上絵付うわえつけ)も営いとなむことができるようになった。しかし、粗製濫造そせいらんぞうや乱売らんばいが始はじまり、有田焼ありたやきとしての信用しんように関かかわるということで、「陶業盟約とうぎょうめいやく」なるものが制定せいていされた。この盟約めいやくには、窯元かまもとに対たいしては素焼すやききをせずに、釉薬ゆうやくをそのまま施ほどこす「生掛きがけ」を禁きんじて品質ひんしつを維持いじし、実用品じつようひんにおいては、製作せいさくする品種ひんしゅをそれぞれの地区ちくの窯元かまもと、窯場かまばで制限せいげんし、過当競争かとうきょうそうを抑おさえた。ある窯元かまもとが蓋碗ふたわんを作つくれば、他たの地区ちくの窯元かまもとが真似まねして同おなじ蓋ふたは作つくれない。模倣もほうした窯元かまもとには罰金ばっきんが科かせられ、この自主規制じしゅきせいは寛烈かんれつであった。模倣もほうした窯元かまもとが「これは浅あさいので盤さらである」などと抗弁こうべんするが、「それは鹿しかを馬うまと言いうようなことだ」とやり込こめられ、しぶしぶ罰金ばっきんを払はらう笑しょうえない逸話いつわが物語ものがたりっている。

一方いっぽう、赤絵加工業者あかえかこうぎょうしゃの技術ぎじゅつのレベルれべるも格差かくさが出でてきた。元來がんらい、磁器製法じきせいほうは分業化ぶんぎょうかされ、それぞれそれぞれ手慣てなられた職人しょくにんを配置はいちして、總合的そうごうてきに指揮しきするのが窯元かまもとなのだが、作業工程上さぎょうこうていじょう、いずれかがおろそかになれば、出來上できあがりは良よくない。裝飾そうしょくの最後さいごの行程こうていである上絵付うわえつけは外注がいちゅうであったので、下絵圖案したえずあんなど が 準備じゅんびされていない製品せいひんは、勢いきおい粗雑そざつになりかねない。にわかにわか窯元かまもとや赤絵屋あかえやの出現しゅつげんで粗製濫造そせいらんぞうが始はじまったのである。江戶期えどきには、上絵付うわえつけ業者ぎょうしゃは一子相傳いっしそうでんと決さだめられ十七軒じゅうななけんしかなかったのだが、一擧いっきょに八十軒はちじっけんも增ふえ、品質ひんしつの巧拙こうせつに格差かくさが廣ひろがってきた。ちなみにちなみに、上絵付うわえつけで余白よはくをとらずに塗ぬりつぶすような技法ぎほうがとられたのは、黑くろや茶ちゃ、群青ぐんじょうの色いろの取とり合あわせが歐米人おうべいじんに好このまれたので一時流行いちじりゅうこうしたのだが、實じつは泉山陶土いずみやまとうどの缺點けってんを補おぎうことと相あまって功こうを奏そうした時期じきもあった。

輸出業者ゆしゅつぎょうしゃにとって、洋食皿ようしょくだいの製造せいぞうは永年えいねんの懸案けんあんになるものであるが、底そこをフラットふらっとにするために高台こうだい裏うらに支えささえ(支脚しきゃく積みつみ)をしたり、高台こうだいを二重にじゅうにすることによって、皿さらの中心ちゅうしん部分ぶぶんの凹みへこみを防いふせいだ。しかしながら、それでは目跡めあとが残るのこるし、重くおもくもなり、あまりスマートすまーとな仕上がりしあがりではなかった。大正たいしょう初期しょきに日本陶器にほんとうき(後のちのノリタケのりたけ)のフラットふらっとな十インチいんち皿さらがほぼ欧州おうしゅうの規格きかくを満たすみたすまでに試行錯誤しこうさくごが続いつづいた。日本にほんにおける洋食器ようしょっきの揺籃時代ようらんじだいを有田ありたが苦心くしん孤詣こけいして開発かいはつしてきたにもかかわらず結実けつじつすることはなかった。しかし、有田ありた出身しゅっしんの江副孫右衛門えぞえまごえもん(一八八五〜一九六四)が日本陶器にほんとうきの工場長こうじょうちょうに就任しゅうにんし、オーナーおーなーの大倉孫兵衛おおくらまごべえ・和親かずちかし父子ふしの強力きょうりょくなサポートさぽーともあり、この大きなおおきなハードルはーどるを乗り越えのりこえ、洋食器ようしょっきの本格的ほんかくてきな輸出ゆしゅつによって飛躍的ひやくてきに発展はってんしていったことは皮肉ひにくなことであった。彼我の成敗せいはいの理由りゆうは項こうを改めあらためて詳述しょうじゅつしよう。


資料來源:

幻の明治伊万里 悲劇の精磁会社/蒲地孝典 第三章 55頁~62頁
日本経済新聞社
発売年月日:2006/04/14
JAN:9784532124014

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